英語を話せる=「頭がいい」のか?

人生について

最近ネットニュースで、ある芸能人を紹介する際に「英語を話せるという頭のいい一面もある」といったことを書いている記事を見ました。最初は通り過ぎましたが、どこかしっくりこないなと思いました。理由は「どの程度のことを想定した英語のことであるのか」(ビジネスでも使用できるレベルなのかそれとも日常会話のみなのか)、ここでいう「頭がいい」というのは学校のテストで点が取れるという意味なのか、考え方が素晴らしいことをさしての「頭がいい」のかはっきりとしないところが多かったからです。

 

最初に断っておきますが、私は特に英語を流暢に話せませんし文章も辞書を引きながら時間をかけてやっと読めるくらいです。また旅行の際に何とか事足るぐらいの英語です。そのため、ただの話せない奴のやっかみだと思われる方も中にはいるかもしれませんが、(全くとは言い切れませんが)そうではないので偏見をもたずに最後まで読んでいただければ幸いです。

 

私は他の方よりイタリア語を少しばかり多くの時間を割いて勉強をしたので、言語の習得の難しさは理解しているつもりです。言語の学習は時間がかかりますし、使わないと一気に衰えていきます。また世間一般では留学をすれば誰でも言語は向上するという偏見があるようです。私自身イタリアに留学に行く前はその幻想を抱いている一人でした。ただ当然ですが、その国に行ったとしても、何もしなければ当然言語はうまくなりません。私自身留学を始めてからもなかなか向上せず、帰国間際になってやっと形になってきたかなという感じでした。みんな苦労して言語を身に着けたんだということを身をもって感じました。(ここの部分があまりわかってもらえないことは悲しいことではありますが)

 

だから言語を習得することは多大な努力が必要な為、ある程度の外国語の言語能力を持つ方に対して私は多大な敬意を払います。勉強をするにもどうしたらいいかあれこれ試行錯誤し、考えながら勉強しないとなかなか向上しないからです。

 

けれども、ある言語を話せることが「頭のいい」ことにつながるかどうかは非常に疑問です。まずタイトルの英語を話せる=「頭がいい」のそれぞれのまとまりを定義をする必要があります。英語を話すことができるということは、相手の言ったことを理解し、相手に自分の考えや感情を伝えることができるということです。おそらくこれに関して深く分析することもないでしょう。厄介なのは次の「頭がいい」です。私が思うに「頭がいい」は大きくわけて2つの意味を持っていると思います。

一つ目は学校のテストで点が取れるという意味での「頭がいい」です。いわゆる「お勉強ができる」という意味です。二つ目は、私のいう「生きる力がある」という意味での頭がいい。(詳細は以前の私の記事を参照ください)

生きる力

簡単に言うと仮説を立て、行動に移し、結果を分析、再度仮説を立てまた再アクション。いわゆるPDCAサイクルをものすごい速さで回せる意味での「頭がいい」です。考える力があり、考えたことをしっかりと実行できる人と言ってもいいかもしれません。

 

最初に挙げたネットニュースに戻りますが、ここでの「頭がいい」はどちらの意味を意図したものでしょうか。私が思うに今回の場合は1つ目の意味での「頭がいい」です。確かに英語を学習している時にはこの2つ目の意味での「頭がいい」に当てはまるでしょう。言語学習もトライアンドエラーがものをいい、うまく行かなかった点をふりかえりまたプランを立て、また練習するその繰り返しだからです。ただ今回の場合「英語を話せる」ということはすでにある程度習得された段階のことであり、学習している段階つまり試行錯誤している段階における話ではないと思われます。よって、このネット記事での「頭のいい」の使われ方は1つ目の意味での「頭がいい」、学校のテストで点が取れるという意味で使われていることになります。

 

日本人はなぜかわかりませんが、「頭がいい」と聞くとテストで点を取れる意味での優秀さを考えがちです。また英語というものを学校の教科の一部として考えてしまっていると思います。これはヨーロッパのように英語を話せて当たり前という考えが薄いといったことも原因ではないかと思います。日本人でも英語を話せる方は一昔前に比べると多くなったかと思いますが、ヨーロッパと比較すると観光地でもまだまだ英語を普通に話せる人はあまりいません。その数は小学校から英語を学習し、英語圏のドラマや音楽に接しているヨーロッパ人と少ないように思います。

 

これは少し前の日本は人口が多く、それに伴い日本のドラマや音楽がその需要に応えるべく素晴らしく発展したことも大きかったのでないかと思います。(イタリアに留学した際に日本語を勉強し始めたきっかけを聞いたところアニメという方がどれだけ多かったことか!)もし日本のそういった市場が貧弱であったら日本人も海外の英語の音楽やドラマの方にながれて今と少し違った状況になっていたかもしれません。

 

こういった記事の存在を私は多様性の観点から否定しません。ただ「英語を話せること」は素晴らしいことではありますが、そうじゃないと頭が悪いという印象も与えかねないと思います。いくら英語を話すことができたとしても、その話す内容の方が当然重要です。言語はあくまで、我々が仕事や日常生活で使うところでは「手段」という側面が大きく、伝えたいこと表現したいことがあってこそ初めて言語は役立ちます。だから私が思うに「英語を話せる」と世間的にはいいと思われるから「じゃあやっておこう」ではなく、もっと深い部分、つまり自分はどう生きたいのか、どういった人間になりたいかなどを深めていく方が大切ではないかと思います。

 

今の時代英語が重要なことは間違いありませんし、話せたことに越したことはありません。ただ、「何となく必要だから」「どこかで役立つから」「みんなやってるから」やり始めるのであれば、もっと他の重要なことに時間を割くべきであると思います。たとえ英語を話すことができなくても補ってあまりある能力がある場合、周りがそれを放っておかないでしょうし(言語面でサポートを申し出る方などがでてくるなど)、また英語よりも興味があることがある場合そちらを磨いた方が世の中に何か貢献できる可能性が高くなるのではないかと思います。今は翻訳の機械があったり、通訳の方もいますので、考えたまま100%を伝えることは難しいかもしれませんが、たとえ外国語が話せなくとも伝える手段はあります。それに外国語が話せないからと言って、その方の人間としての価値は変わりません。

 

私も以前は何となく英語が将来必要だから勉強をしていました。ただどうして必要なのか人生においてこういったことをしたいから、そのために英語が必要であるという理由付けがうまくできていませんでした。今振り返るとそれが英語の定着につながらなかった大きな原因であったと思います。手段が目的になってしまったのかもしれません。

 

理由付けがなければ言語学習はしてはいけないと言いたいのではありません。「言語学習が好きだからする」、「話していると楽しいからする」で全く問題ありません。現に私自身今イタリア語のオンラインの授業をとっているのは忘れないためでもありますが、ただ話していて楽しいというところが大きいからです。ただ何かしらのモチベーション、つまり人生において自分が実現したこととより直接的に結びついていた方がより腰を据えて没入できるのではないかという話です。

 

私は現在の仕事に様々な偶然が重なって就くことになりましたが、比較的楽しく毎日やらさしてもらっています。ただ毎日の忙しさや充実度を言い訳に、人生における根幹の部分をあまりというよりも全く考えていないと思います。そこを考えるのを後回しにし、「気づいたときには… 」ということはもう私自身経験をしたくないです。その根幹の部分はすぐに結論が出るわけではないですし、死ぬまで絶えず変化をしていくので考え続けなければなりません。それは明白な答えが出ない問題を解き続けるような困難なことではあります。ただ、そこで考え続けなければ少しでも自分が理想とするところに近づくことは難しいでしょう。

 

結局はその人の歩みたい人生において、英語をしたいと思ったらすればいいですし、したくないと思えばしなくていいと思います(自分の根幹が決まってきてこんな感じで行こうかなという方針が決まった時に、それを実現するために英語が必要であれば勉強する必要があるでしょう。その英語の内容も最新の情報を得るために英語の文献を理解するための英語なのか、また意思疎通を図るために相手のことを理解し自分の考えを伝えるために必要な英語なのかによって勉強する内容も変わってきます)ただ、そのもっと深い部分にある自分がどうしたいのかということは考えておくべきではないかなと思います。

 

私自身そこの部分を現在進行形で考えているところです。時間はかかりそうですが、そこがしっかりとすれば生活も仕事でもしたいことややるべきことがクリアになるのではないかと思います。

 

最後になりますが、みなさんが楽しい言語ライフを送れることを願います。Ciao Ciao.