白米と日本人

ウズベキスタンで食べたボルシチ。ご飯がほしかった...
イタリア語

いきなりですが、今日のご飯は何をたべましたか?

 

パンでしょうか、麺類でしょうか、それとも白米でしょうか?

 

私はよくある記憶力診断をしたいのではありません。

 

最近白米は食べているかどうかを知りたかっただけです。

 

近頃は白米を食事の時に食べる機会が特に若者の間で減ってきているそうです。(今どきの若者はと言いたいわけではありません)

 

これは「多様性」という考えが広がってきている現代社会において別に、いつもパンを食べようが、麺類を食べようが悪いことではありません!(何食べったっていいんです!)

 

ただ私個人的な意見とするとパン<麺類<白米の順番で、適切な表現かはわかりませんが「ご飯を食べた感」が上がっていくような気がします。

 

つまり白米が食卓にないとどこか食事をした感がないような気がします。

 

麺類もパンもそれなりにたくさん食べれば、おなかはいっぱいになります。しかし繰り返しになりますが「食べた感」がない。

 

これはバーナード・ルドフスキー『キモノマインド』の中でのエピソードの中でも同じことが書いてありました。

 

ルドフスキーは日本人の友人と食事をし、感想を聞いたときのエピソードとして下記のように書いています。

 

「ライスがない」と彼は、ようやくにして口を開いた。「ライスがない食事ってのは、食事じゃない」(『キモノ・マインド』B・ルドフスキー著 新庄哲夫訳 鹿島出版会 1973年 p.177)

 

我々日本人にとって、米を食べる機会が減ってきたとはいえ、この白米は別格の位置を占めているのではないでしょうか。

 

もうしばらく時代が進んだとしてもパンや麺類がその白米の地位を脅かすことは厳しいくらいでしょう。

 

なぜか。

 

それは「ご飯」という言葉の意味を見ると少しわかると思います。

 

我々が「ご飯」という言葉を使う際、2つの意味が存在します。

 

1つ目は「白米」。

 

これは白いご飯などと使うことからもわかると思いますが、「米」自体(そのもの自体)を示しています。

 

 

そして2つ目の意味として、「食事」。

 

朝御飯、昼御飯、晩御飯という言葉にあるようにご飯という言葉は食べるもの全体をさす単語として使います。(力士が食べるものをすべてちゃんこというような感じでしょうか)

 

会社の昼休みに同僚と昼食を食べに行く際に、食べるものがラーメンであれ何であれ「ご飯食べに行こう」と言うかと思います。

 

特にこの2番目の「食事全般」を意味することは他の外国語と比較しても珍しいことではないかと思います。

 

なぜならこういったある一つの食べ物を指して「食事」という意味にもなる単語はあまりないからです。

 

イタリア語では少なくともパン(pane)やパスタ(pasta)にあたる単語で食事や朝食などを指すことはありません。(もしそういった言語があれば教えていただきたいです!)

 

日本人にとってはこの「白米」がいかに重要な存在で、食卓に欠かすことのできないものであることが少し垣間見れるかと思います。

 

ただ実際、白米は単体で食べるととても淡白な味わいで、普通に考えると食卓の主役を張れるような存在とは言えません。

 

ただそこにないとなぜか物足りない。空気なような存在。

 

おかずだけを食べていると無性にほしくなる白米。逆においしい白米を食べていると「これと併せたらおいしいだろうに」と自動的に考えてしまう日本人。

 

共犯関係のようです。

 

これこそが白米が白米たるゆえんです。

 

白米は特徴が少ないからこそ、あらゆるものを受け止めてくれる器の大きさがあります。そのため、大抵の料理、和食に限らず洋食、中華でもなんでも合います。

 

悪く言えば自己主張、特徴がないとも言えますがこれは組み合わせによってあらゆる存在になることができるという特徴の裏返しかと思います。

 

ある意味で、白米は「不完全性」を持っていると言えます。

 

それ自体だけでは完成せず、他のおかずと組み合わされることで完成する。我々はある意味で最後の仕上げをする芸術家です。

 

そこに何を持ってくるかによってその人の個性が出てきます。別の記事でも書いた「スタイル」ともいえるでしょう。

 

そこにとんかつを持ってくるのか、エビチリを持ってくるのか、シチューを持ってくるのかで何となくその人の今の気分やライフスタイルまで少し垣間見ることができそうです。

 

少し話はそれましたが、この白米の「不完全性」は日本のその他の文化にも通じるものがあります。

 

茶室、掛け軸など日本文化は完璧に仕上げることをせず、どこかに想像の余地を残しています。

 

茶室の場合、ものは必要なもの最低限に抑えています。それは飾る掛け軸や花を変えることにより茶室を招待主の好みに合うよう最後にカスタマイズできるようにするためです。

 

そのため、殺風景ともいえるようなシンプルな部屋の作りになっています。

 

掛け軸もルネサンスの絵画のようにキャンバス上を完全に色とイメージで埋め尽くすのではなく、あえて何も描かない空白を用意します。そこに見る人の想像力を喚起させ、色や空白部分を鑑賞者が補いながら頭の中で完成させます。

 

このように白米にもこの茶室や掛け軸といったものと同じ性質があるように思います。

 

よく日本人はイエス・ノーがはっきりしない国民というイメージが付きまとっています(そんなこともないとは思いますが…)

 

服が人を作るということわざがあるように、食べるものが文字通り人間を作っているため日本人はそのような特性を持っているのかもしれません。

 

上記に述べてきたような白米の性格(不完全性:あらゆるものになれる可能性がある)があるため、個性の強いおかずがないと物足りなく感じてしまうように、相手にはっきりと決めてもらわないと、その相手の好みに染め上げてもらわないと、日本人も力を発揮できないのかもしれません。

 

ただそれは多くの人とうまくやっていける、和を大事にしているともいえるでしょう。

 

次回白米を食べる際は、キャンヴァスの上に新たなイメージを描き出す芸術家の気分で食べてみてはいかがでしょうか?

 

「今日はティツィアーノの気分でいこうか」「いやマグリットの気分でいこうか」などと考えるのも楽しい(?)かもしれません(よくわかんないですね…)

 

今日も白米ともにおいしい食事ができることを祈ります。

 

それでは Buon appetito e Ciao Ciao.