美術館のカフェはなぜあるのか?

あるとき友人と美術館に行く機会がありました。

 

1時間ほど見た後でしたか、ふとその友人が

 

「なんで美術館や博物館にはカフェがあるのかね」

 

とぼそっと言いました。

 

あまりそこについて深く考えたことがなかったので、「頭も身体も使うから疲れるんじゃないかな」と答えてそこでの会話は終わりました。

 

ただ今考えると不思議なものです。

 

美術館・博物館には大体カフェがあります。

 

デザートやコーヒーなどは当然で、食事も出てきます。

 

自分自身美術館・博物館には必ずあるものという認識が強いため、逆にない方が驚きというぐらい当たり前に思ってました。

 

私自身は、ミュージアムのカフェは値段が高いという認識もあり(実際けっこうしますが)、今まで使用したことは1回しかありません。

 

 

ただ、美術館という少し非日常を体験できる空間の中にあるため、カフェのもつ独特な雰囲気にはとても惹かれるものがあります。

 

 

私が今のところ考え着いた美術館にカフェがある理由は次の3つです

 

1. 美術鑑賞は疲れるから見終わった後の休憩のため

2. 鑑賞の後見た作品について話すため

3. 日常に戻るためのクッション

4. 上記すべて

 

 

美術鑑賞後の休憩のため

美術鑑賞はある意味で運動に似たところがあります。

 

体力を使うと同時に頭も使います。

 

展覧会に赴いたとき、展示室のいたるところにベンチが置いてあるかと思います。

 

週末に展覧会に行くと、大体の席が埋まっていて自分も休みたいのになかなか空席が見つからないという経験をしたことがあるの方もいるのではないでしょうか。

 

美術館の中を歩き回ることはそれだけ疲れることである証拠です。

 

人によって鑑賞時間は様々ですが、1~2時間の間に歩いて、立ち止まって、階段をのぼるなど散歩をする以上になかなかハードなことをしていると思います。

 

大学時代にヨーロッパに行った際、1日に3つの美術館を行くことなどをよくしていましたが、2つ目の途中から作品を見るどころではなく、足の疲れが気になってしょうがなかった覚えがあります。

 

プラハの美術館に行った際、他に人もおらず、椅子も寝転がれるくらいふかふかしていたので連日の疲れもあり、しばし寝てしまったこともあります。

 

美術館で鑑賞するということはそれだけ大変なことなのです。

 

また美術鑑賞は体力的なものだけでなく、非常に頭を使います。

 

ある作品に関する情報を事前に持っていようと持ってまいと、その前に来た時に人は何かしら考えます。

 

「これはきれいだな」「これはあまりすきでないな」「妖しい雰囲気だな」など頭の中に刺激が来ます。そしてなぜそう考えたのか理解しようとし始めます。

 

 

大体展覧会では100作品くらいはあるので、これを繰り返すことはある意味で答えのない100の問題に対して、答えを考え続けることに匹敵するのではないかと個人的に思います。

 

それくらい頭を使うことであると思います。

 

そのため美術鑑賞は身体も頭も疲れる。

 

だから、休憩するための場所であるカフェが必要になるのかなと思いました。

 

カフェの椅子に座ってゆっくり休み足を労わると同時に、疲れ切った脳に甘い物を与えることでねぎらう為です。

 

こうすることで、家路につくための回復ができるわけです。

 

ただ今や日本でもカフェは、特に東京の場合数多くあるので、わざわざ美術館の中につくる必要性もそこまでないのかなと思ってもいます。

 

こうした実用的な部分もカフェが兼ねていて当然だとは思いますが、美術館内にカフェがある理由は他にもありそうです。

 

鑑賞後見た作品について話すため

日本の美術館は特にそうですが、くしゃみをすることすらはばかれるような静けさが漂っています。

 

静かすぎるのもなんだかなと毎回思います。

 

もし誰かと美術館を訪れているのであれば、せっかく同じ作品を見るというある種の共同作業をしているので、会話が生まれる絶好の機会のはずです。

 

ただそこはぐっとこらえて静かに見なければいけない日本の美術館。

 

ガイドの人は話すことが許されていても、私たちが話すことがあまりよく思われていないことは残念なことです。

 

ある貴族が自分の肖像画を他の人に見せた時に、必ず「これいいでしょう?ルーベンスに描いてもらったんだ。どうかな?」とおそらく友人に話していたと思います。

それに対して友人も「もっとこうしたほうがよかったんじゃないの?」や「そこはティツィアーノだろう!」など会話していたのではないかと勝手に思っています。

 

だから、もう少し作品の前でも自由に話せるようになればなと思ってしまいます。

 

ただこれができないために、どこか別の場所でしなければなりません。

 

それがカフェです。

 

ここでも大声で話すことはできませんが、少なくとも話すことはできます。

 

ただヨーロッパの美術館を思い出した場合、この2つ目の理由も違うかなと思いました。

 

なぜならヨーロッパの美術館は、日本の美術館ほどは静かではなく、けっこうがやがやしていた覚えがあるからです(当然大声で話すことはできませんが)

 

留学をしていたイタリアの美術館は少なくともそうだった記憶があります。

 

ただイタリアの美術館でも大体カフェがあったっと思います。

 

鑑賞中も比較的話しやすい国でもカフェがあるということは、この理由も違うかもしれません。

日常に戻る際のクッション

今週、美術館ではありませんが、コンサートに行ってきました。

 

久しぶりのコンサートであったため、とてもいい時間を過ごすことができました。

 

いい音楽を聴くことができたときは、しばらく余韻に浸りたくなります。

 

美術館に行ったとき、同様しばらくその空間から出たくなくなります。

 

私にとっては美術館もコンサート会場も非日常的な空間で、日常を忘れることができる場所だからです。

 

そういった非日常の空間からすぐに日常の空間に戻ってしまうと、振り幅が大きくどこか居心地が悪い思いがします。

 

私は昔から目の前のことから、目をそむけたくなる傾向が強いようで、目の前のことから逃げがちです。

 

それは昔も今も変わりません。

 

今はそのことに自覚的になっただけましですが。

 

そのため、私はなかなか世の中になじめないようで、少しでも気分が沈むようなことがあると目の前の現実から逃げ出します。

 

その避難先となる場所が、美術館やコンサートです。

 

 

東京で仕事をしていた時も、いやなことがあると上野の西洋美術館に金曜日の夜によく行っていました(金曜日は遅くまで開館していたこともあって)

 

そこでカルロ・ドルチェの聖母の絵画を必ず見に行っていました。

 

そして、じっとそれをただただ眺めていました。

 

何も考えません。

 

ただこの美術館という空間にいることができるだけで、幸福でした。

 

私にとっては美術館もコンサートも現実逃避をするためのシェルターのような存在です。

 

だから、美術館やコンサート会場からすぐに出ると、暗い洞窟から外に出ると目がくらむような感覚です。

 

そのため、カフェは現実空間に戻るために準備をするための場所、そして鑑賞の余韻をできるだけ長引かせるための場所ではないかと思います。

上記全て

ここまで長々書いてきましたが、上記すべてがカフェの存在を定義づけているのではないかと思います。

 

そして、ここに挙げた以外でも美術館のカフェの利用方法は数多くあると思います。

だから、その多様なあり方がカフェであり、喧騒に包まれた街の中から少し隔絶してちょっとした非日常的な空間を提供する場所が美術館のカフェではないかと思います。

それではCiao Ciao.