最近読んでいる本の中で、英語のhumanの語源について紹介して、面白いなと思ったので引用します。
わたしが最近気に入っているのは、ヒューマンという語がフムスというラテン語から来ていること。フムスというのは腐蝕土の意味である。ヒューマンというのはだから、もともとなにか優れた意味なのではなくて、人間が自分を低い腐った存在として意識するという、謙虚な思いから発した概念であるらしいことが、ここから見てとれる。同じフムスからヒューミリティ(謙虚)という言葉が派生してくるのも、これで納得できる。(鷲田清一著『てつがくを着て、まちを歩こう ファッション考現学』筑摩書房 2006年 p.184)
なるほどなーと思いました。
日本でも「実るほど頭を垂れる稲穂かな」といいまわしがありますが、人間謙虚でないといけないなと改めて実感しました。
久しく「個性が大事だ」とは言われ、「自分がどうしたのか」「自分が何をしたか」が重要で、主語がいつも「私」「私」ということが多い気がします。
人はこの世の中で、何か一つでもいいからほかの人は持っていないもの、自分しか持っていいない能力などを求めがちです。
また、だれもやったことのないことを成し遂げようとします。
そういったことが仮に達成できたとしても「自分がやった」「自らの力で勝ち取った」とつい思いがちな人が多いような気がします(個人の努力を否定したいのではありません)
そこには少なからず周りの方の影響があったことは間違いないでしょう。
私は前職を昨年の11月に辞めました。
大きな希望とともに入社し、目標に向かって邁進していましたが、精神的に参ってしまい結果辞めることになりました。
目標を失い、無職という何もない状態になりました。
その時は今後をどう描けばいいかわかりませんでした。
ただ周りの方々に助けられました。
何もなくなった自分に対して、アドヴァイスをしてもらったりとこんな自分でも変わらず受け入れてもらえたことはとてもうれしかったです。
その後、新しい仕事を始め、このブログも始めました。
最近は仕事のことでお褒めの言葉を頂戴する機会があったり、またブログに関しても友人から反響をもらえうれしいことばかりです。
さらにブログに関しては「刺激を受けている」というコメントもいただき今までに感じたことのない喜びを感じました。
生きる活力をいただいた感じです。
別の言い方をすると生かしてもらっているという感覚です。
先日これを実感する機会が改めてありました。
私が今のところで働き始める時に、世話をしてくださった派遣会社の方が、退職されるということで挨拶来てくれました。
その方はあまり力になれなかったことを詫びていました。
しかし、その方が今の派遣先と良い関係性を築いてくれていなかったら今の自分はありません。
「生かされている」なと改めて感じた瞬間でした。
それだけではなく今のボス、同僚の方々にも同じように日々助けていただいているわけで、現在進行形で「生かされている日々」です。
最初の話に戻りますが、腐蝕土もそこで育つ植物あってのものです。
それは自分と周りの関係している方々が持ちつ持たれつの関係性と同じ気がします。
生かしてもらい、こちらも生かしてあげる。
多くの人が他の人から影響を受けると同時に、こちらも多くの人にわずかながらも影響を与えています。
その特定の誰かにとっての自分というものにもっと目を向けるとこの世の中ももっと住みやすくなるのではないかと思います。
個人という小さな単位よりもより大きな世間で認められるという実績を作るよりもです。
誰か一人でも自分のことを理解してくれ、励まされ、励まし合える人がいればこの世に生きている価値はあるなと思います。
この生かされている命を大事にし人間らしく謙虚に生きたいと思います。
それでは Ciao CIao.