深部を味わうためのリテラシー ―大学時代のヨーロッパ旅行を通して—

大学3年の時に最初に見た記念すべき傑作ベルニーニ《聖テレサの法悦》
イタリア

大学後半から一日の過ぎる速度が速くなり、社会人になるともっと早く感じるようになりました。今年もあと残りわずか。1年が過ぎるのも早いですね。

 

今は、仕事以外の自分の時間をいかに確保するかにとても苦心しています。そう思うと、大学時代は非常に貴重な時期であったことを改めて思います。

 

お金はないけれどたくさんの時間がある。

 

その時間をいかようにもすることで無限の可能性を探求できる時期でもありました。自分はと言いますと、長期の休みに旅行に行くことが2度ほどありました。

 

最初は、大学1年生が終わった時の春休みのロンドン。これは友人と行きました。

 

そして2回目は一人で、ヨーロッパを数か国、約1か月間。

 

3年の夏休みに入る前に、院生の先輩方のヨーロッパ紀行の発表を聞く機会がありました。

 

その発表を聞いて自分も、ヨーロッパのこと(西洋美術史)を扱っているのだから「現地で見なければ」という思いに駆られました。

 

その当時は思い立っても行動に移さないことが多かったですが、この時ばかりはなぜか違いました。

 

なぜかはわかりませんが、相当行きたかったのでしょう。

 

ヨーロッパに行く前の当時の私は、「今回の旅行で、実際に見て衝撃を受けた作品があったら、それを研究するために大学院に行こう」と考えていました。

 

旅行はイタリアのローマから始まり、フィレンツェ、ヴェネツィアなどのイタリア各都市を回り、そしてザルツブルクに入り、続いてミュンヘン、プラハ、ウィーンそして再びローマで終わりました。

 

旅行中印象深いこと出来事はいくつかありましたが、残念ながらその中で「あの作品はとても感動した。これを探求するために大学院に進もう」という出来事は含まれていませんでした。

 

ヴァチカンも行きましたし、ウフィツィ美術館、ウィーンの美術史美術館といった世界屈指の美術館や教会にもいくつも行きました。

 

ただ自分にそう決心させるだけの作品はありませんでした。

 

帰国時にはなぜ世界屈指の美術史の教科書に載るレベルの作品を見てきたにも関わらず、そういった感情が湧き上がってこなかったか不思議でした。

 

自分でどうにか理屈をつけて「こんな感動的な作品があったな」と思いこませようとしましたが、全くダメでした。

 

その時は、尊大ながらも「こんなものなのか」と考え、大学院はいかなくてもいいかなと結論付けていました。

 

当時はそのわけを考えることさえしませんでしたが、今ではしっかりとわかります。

 

それは、当然ですがヨーロッパで見た作品の方に問題があったのではなくそれを見る側の自分に問題があったからです。

 

それもそのはずで、私は大学時代はほとんど自分から能動的に勉強をせず、高校時代のように与えられた課題をこなしていくのみでした。

 

そのため、西洋美術史に関する素養はほとんどゼロに近い状態でした。

 

そんなやつが、ヴァチカンに行ってミケランジェロの《最後の審判》を見て、確かにすごいことはすごいと思いましたが「それ以上はよくわからん」と一蹴していたのは何ともミケランジェロに失礼なやつであったといまさらながらに反省しています。

 

ミケランジェロを含め、芸術家は創造行為に人生を捧げ、様々な思索を重ね、その結果が作品であったわけです。

 

それを少しかじって、その世界を少しでも理解しようともしていなかったやつにわかろうはずがありません。

 

その時にすでに何かしらの知見や自分自身の考えがあれば、よりその当時のヨーロッパ紀行も充実したものになっていたでしょう。

 

見る前にある程度の私見を持っていれば、実際に見てそれがあっていたのか違っていたのかと比較でき経験の厚みが増します。

 

芸術作品を鑑賞するのに、知識や素養は確かに要らないかと思います。

 

誰でもある作品を見れば、1つや2つ気の利いたコメントを付け加えることはできます。

 

それがあっている間違っているというのはここではあまり問題になりません。

 

しかしながら、その作品の意図などを本当に深い部分まで理解し、西洋美術史を見る目を養いたいのであればある一定水準の素養は間違いなく必要とされます。

 

例えばレオナルド・ダ・ヴィンチの《モナリザ》を知っている人は多くいるかと思います。

 

あくまでも「知っている」人です。

 

ではこの作品の何が素晴らしいのか、どこがそれまでと異なっているのか、その作品をしっかりと「理解している」あるいは「理解しようとしている」人はどれだけいるのでしょうか?

 

(理解しているあるいは理解しようとしている人であれば、ルーヴルのモナリザの前に行ったときに写真を撮ることに精一杯にならずその前にたたずんで、いろいろと思索を重ねるはずです)

 

せっかくヨーロッパまで行って現地でしか見ることができない、教会美術や壁画などを見て写真を撮って、Facebookを充実させることを否定はしません。

 

しかしせっかく目の前にあるにもかかわらず、写真を撮ることに一生懸命になってしまっていては悲しいことではないでしょうか。

 

我々は日常生活の中でもルーヴルで《モナリザ》前にした時と同じことをしてしまっています。

 

つまり、身の周りにあるものにたいしてあまり注意を向けていないということです。

 

 

例えば、料理の場合。

 

普段母親の作った料理を何気なくただ食べているだけになってしまってますが、たまに母親の料理の手伝いをすると、

 

火の入れ方、調味料の分量、食材の切り方、食器選び、盛り付け方などこんなに細かいことをしていたのかと驚かされることが多々あります。

 

そこには長年の経験とその過程で学んだ知識がふんだんに生かされていると思います。

 

しかし、私にはその細かいところを理解するあるいは感じる素養が全くなかったということです。

 

 

最近原研哉さんという日本人のデザイナーの方の本を読みました。その中に、デザインはどういうものかということに言及して

 

デザインとは、ものづくりやコミュニケーションを通して自分たちの生きる世界をいきいきと認識することであり、優れた認識や発見は、生きて生活を営む人間としての喜びや誇りをもたらしてくれるはずだ。(『デザインのデザイン』 原研哉著 岩波書店 2003年 P.2)

 

と書かれていました。

 

つまり、我々の身の回りにあること、普段当たり前に思っていることに「ハッと気づかせる」ように導くということです。

 

原さんのデザインに関する文章もそうですが、鷲田清一さんのファッションに関する著作を読んでいても日常のありふれた出来事から、深い考察に入っていく思考の過程を読んでいると純粋に「すごいな」思います。

 

身近なものに対するアンテナがものすごく高いのは、「ハッと気づく」ための経験や知識が豊富に備わっているがゆえでしょう。

 

デザイナーの方が我々に対して、ハッとさせるようなデザインを作ったとしても、私たちがそれを見てハッとできるだけの下地がないといけません。

 

これはデザインだけでなくさまざまなことにも当てはまると思います。

 

経験や勉強を重ねた上で、どれだけ日々周りにことに、自分が興味あることに、ハッとできるか。

 

きっとこの「ハッとできる」経験が多いほど人生も豊かになっていくにだろうかと思います。

 

ここまで書いて思いましたが、自分は日常の些細なことにもハッとできる人間になりたいのかもしれません。

 

私がヨーロッパに住みたいというのも、言語の面であれ、景色であれ、人であれ、日々触れるものにたいして毎日「ハッとする」ような経験をしたいからかもしれません。

 

(当然日本でも身の回りのことに興味をもてば、わざわざヨーロッパに行かなくても大丈夫だということにもなりますが…)

 

まあ、いずれにせよ毎日「ハッとする」には、日々積み上げるしかないですね。

 

今回の記事を読んで、ハッとしていただけたら幸いです。

 

それではCiao Ciao.