先週は、私のひいきのサッカーチームであるアーセナルがライバルチームのトッテナムとのダービーに盛大に勝利しました!
開幕3連敗からの3連勝。
しかも試合内容も最高で、久しぶりに見ていて面白い試合であり今後への希望を持てました。
その中でも目立っていたのは、冨安。
その試合で、ファンの選ぶマンオブザマッチに選ばれました。
日本人が、伝統のダービーマッチに出場したことだけでも胸熱ですが、しかも試合のMVP。
日本人として誇らしいです。
冨安がアーセナルや世界で一番試合のテンションが高いと言われるイングランドのプレミアリーグ(日本でいうところのjリーグ)にこれほど早くなじむとは思いませんでした。
冨安がデビューした試合は、移籍後すぐ全体練習は1、2回くらいしかしていなかったそうです。
そのホームでのデビュー戦、選手入場の時の富安は堂々として全く動じていない姿が印象的でした。
ユニフォームの上に長袖のジャージを羽織ったスタイル。
袖を少しまくり、風を切るように歩く姿はとてもかっこよかったです。
その姿は自身に満ち溢れていました。
(最初の30秒までの入場シーンをご覧ください!)
(出典 ダゾーン公式 https://www.youtube.com/watch?v=GJb7GyQkdoY 2021年10月3日最終アクセス)
私は影響を受けやすい人間なので、翌日出勤するときに冨安と同じように、腕まくりをし胸を張り風を切って歩いてみました。
その日の格好は、白Tシャツ、その上に開襟の黒シャツ、ローファー、そして黒のワイドパンツでした。
歩いたときの感じがその日はなんだか、少しは様になるように感じました。
なぜだろうと考えると、ワイドパンツがその理由でした。
普段はいているズボンよりも生地が多く使われており、風にたなびきます。
さらに大股で足を踏み出すと、風をより感じることができるようになり、胸を張って歩く姿も決まっているように感じました。
そしてワイドパンツのシルエットや生地の量もそうですが、ワイドパンツの精神にも私を堂々と歩かせるパワーがあったと思います。
結論から言うと、ワイドパンツには「アウトサイダー感」があります。
洋服の歴史において、貴族の着るいわゆる「正式な」格好は脚のラインがでるようなほぼタイツに近いようなものでした。いまでこそ曲線美は女性のものですが、昔は男性のものでした。ズボンということはできませんが、ある意味でスーパースキニーが貴族の正しい着こなしでした。
長年スーパースキニーであったパンツ(タイツ)ですが、フランス革命により大きな変化を迎えます。
こちらの絵画は、学生の時に見たことがある方も多いのではないでしょうか。
この絵画はボワリ―による《サン・キュロットの扮装をした歌手シュナール》です。
サンキュロットはフランス語で、Sans-culotte
sans は英語のwithout
culotteは当時貴族の履いていた半ズボンのことです。
この半ズボンにタイツのスタイルは当時の貴族のドレスコードにかなったズボンでした。
しかし、現在のスラックスのもとになったと言われる、このサンキュロットの履くズボンはドレスコードにかなったものではありませんでした。
これは、下層民や兵士が履いていたものであったからです。
貴族以外の平民はフランス革命の際、権力に立ち向かうアウトサイダー的な存在でありました。
だから、彼らの履くこの「ゆったりとした」ズボンは、「あなたたち(特権階級)とは違うんです!」という表明と同時に、強大な敵に立ち向かう際、力を与えてくれたのかもしれません。
それゆえ、弱いものが強大な敵に立ち向かうヒーロー的なかっこよさもこのサンキュロットの履くズボンにはあったと思います。
私が思うにこれと同じようなことが、日本の学校でも起きています。
制服のある中学校や高校で、いわゆるヤンキーや不良は(反抗のしるしとして)制服を着崩そうとします。
着崩すときは大体がズボンです。(あるいは学ランの丈の長さ)
今はどうであるかわかりませんが、不良やヤンキーを描いた昔の漫画やアニメではオーバーサイズのズボンをはいているイメージがあります。(かなり古いイメージでしょうか)
私は服装に関しては一応「真面目」であったので、学生服をあえてオーバーサイズにする意味はよくわかりませんでした。
しかし、そこには何かしらの「正しさ」や「権威」に立ち向かう一種の自己陶酔や「正しさ」と異なることでのかっこよさがあったのかもしれません。
であれば不良やヤンキーの格好にも、フランス革命の精神が息づいているかもしれません。そう考えるとまじめに「正しい」格好で歴史の授業を受けていたことが滑稽なようにも思います。
私には立ち向かう「権威」や覆したい「正しさ」があるわけではありません。
ただ、仕事で「今日はうまくできるかな」と不安に思っている時などワイドパンツを履くと少しだけ自信を与えてくれるように感じます。
それは、最初に述べたような「アウトサイダー感」がある故かもしれません。
それを人は自己満足というかもしれません。その点では制服を着崩す不良やヤンキーと同じ精神です。ただ、それで気分が高まるのであれば問題ないですし、これは私の思う服の素晴らしいところであると思います。
私は富安のよう自信がなく常に堂々と胸を張って歩くことができていません。いかなる時も、いかなる服装をしていても自分に自信が持てるようになりたいものです。
ただ服によって補えるのであれば、それを使わない手はないのです。
冨安はまだ22歳。私はもう27歳。
人間年齢ではなく、過ごしてきた時間の濃さがその人の表ににじみ出てくる自信につながることは間違いないようです。
冨安のこれからの活躍を願いながら、
それではみなさんCiao Ciao.
〈参考文献〉
『スーツの神話』 中野香織著 平成12年 文春新書