最近、なぜ自分自身の販売の売上が増加しないか、その根本原因が分かったような気がします。(私はアパレルの販売員をしています)
もちろんファッションやスタイリングの知識、最新情報の収集などその他にもやるべきことは山積です。
ただ、それらを活かすうえでもっと重要になる基礎的な部分が決定的に欠如していることに気づきました。
それは他人との意思疎通をはかるいわゆるコミュニケーションの能力です。
現在の仕事に就いてもうじき3年が経過しようとしています。職場の環境には当然なれましたが、お客様の接客に入っていこうとするときに未だに恐怖心が出ます。
その恐怖心の正体は、「他人に自分を拒否されること」であると思います。つまり嫌われたくないということです。
拒否されることに敏感に反応してしまうのは、そうしないと自分というものが保てないほど自分自身がもろいからです。
ただ、今までそうなってしまった原因を考えたことがありませんでした。
少し長くなりますが、その根源までさかのぼってみたいと思います。
さかのぼること13年、つまり高校時代です。
高校に入るまでは、(私見ではあるが「普通」に誰とでも話ができており会話が下手であるなと感じることはあまりありませんでした。そして人が嫌いで、ひとりでいたいと感じることもそこまでありませんでした。
それは小学校から中学校に上がる際に他の小学校から他の人が入ってこず全く同じメンバーであったことも理由の一つです。
しかし、高校に上がると初めて他の学校から、しかも聞いたこともない中学からの生徒が隣にいる空間を初めて経験しました。中学生の時に学習塾に通っており、他の学校の人と接触する機会はありましたが、高校入学は私にとってまさに初めての大規模な未知との遭遇でした。
私が自分自身を他人と交流することが苦手な人と意識し始めたのはこの時期くらいからであったと思います。ただ当時はそれがそこまで重大な問題とも考えていませんでした。いい大学に入ることができればそんなの関係ないと〈私の高校ではそのような価値観が優勢であったと思います)
高校に入学後自分の席の周りの人たちはすぐに打ち解け合って楽しそうに話をしていました。
私はといいますと部活動にもきちんと所属せず周りともあまり積極的に馴染んでいこうとはしませんでした。大体一人でした。その時は特別苦ではありませんでした。自分はそのような人間だし、それほど周りの人との交流を積極的に望んでいませんでした。
そのためこの時期に、他人と生身で交流する経験が圧倒的に欠如しました。
それにより、例えば相手の表情を読み取る、会話の間合い、自分のことを理解してもらおうと言葉で説明する努力をする経験をほとんど得ることができませんでした。
またその過程の中で自分自身の心がおられる、不当な理不尽なことを経験し怒りを覚えることなどを通して自分という人間の幹の太さを太く成長させることができませんでした。
高校時代の私の過ごし方の結果として外部との交渉を大きく制限した代償は大きく、少し反論されただけで自分の存在が否定されたくらいに感じてしまう弱い自分というのが徐々に確立されていきました。
私が通っていた高校は(一応)県内有数の進学校だったこともありプライドの高い人は少なからずいたように感じます。私自身もそれとあいまって自分の中で空虚なプライドを育て上げすぎてしまいました。その後の大学受験で旧帝大に受かって「しまった」ことも変なプライドを増大させる結果を招いてしまいました。
大学生活も高校時代とほとんど変化なく友人が数人できましたが、自分の世界に閉じこもり旧帝大の空気が変なプライドだけ高くなり、内部では「弱い私」が順調に育っていきました。
それに気づかぬまま大学を卒業し、働き始めてもう5年が経とうとしています。
冒頭に書いたようにコミュニケーションを実地で培ってこなかったことが接客の技術以前に問題だとわかりました。そしてそのような経験が欠如しているため、自分という人間への自身のなさあるいは相手に対する恐怖心が声であったり立ち振る舞いににじみ出ており、私が勧めるアイテムもどこか頼りない印象を与えてしまっているのではないかと言うのが私の見立てです。
そのことに気づいてからさらに気落ちしていました。それはなかなかすぐに直せることではないと思ったからです。
ですが、気づけただけでも大きな収穫であると少しずつ思えるようになりました。
何でもそうですが、毎日意識して少しずつ変えていくしか方法はないです。
「病は気から」とはよくいったもので、「コミュニケーションが苦手だ」とずっと悩んでいるとそれが身体の奥深くまで刻み込まれ、自分からコミュニケーションをとることがより困難になっていきます。
たまにはこの不器用な自分のこっけいさや失敗を自分自身で笑い飛ばしてみてはどうか。
相手になんだこいつと思われてもそうしていくしかないし、接客の途中で話していて自分でも何を言っているのかわからなくなったとしても、「また変なこと言っている」とそこで笑い飛ばしてみようかと思います。コミュ障上等だと。
最後に、最近勇気づけられた文章があったので、みなさんにも紹介して終わりにしたいと思います。
学力の低い親のもとに生まれたから、教養のかけらもない環境に育ったから、魅力的な肉体の遺伝子を受け継がなかったから……自分はこんなにだめ人間なのだ、ときみは言う。だが、とにかく人間のことは皆目わからないということを思い起こしてほしい。
その中できみは自分の本質をそう決定し、それが人生を規定すると解釈したのだから、その責任はきみにある。自分の「だめさ」を固定してそれを親や状況のせいにしたのはきみである。その意味で、きみは自分を「だめ人間」として選んだのだ。だから、きみは未来永劫にわたって「だめ人間」になるであろう。
だが、何が一人の人間の行為やあり方を決定するかは、じつのところまったくわからない。だから、どんな人でもどんな瞬間でも、「いままで」を完全に断ち切って新しいことを選べるのだ。
『非社交的社交性 大人になるということ』 中島義道著 講談社 2013年 p.5-6
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
それではCiao Ciao.
〈参考文献〉
『非社交的社交性 大人になるということ』 中島義道著 講談社 2013年