最近マッチングアプリをまた始めました。
またというのは2年前、前職を辞め東京から群馬に帰るまでの間、思い残すことがないようすでに試していたからです。
それ以来、2度目の挑戦です。
前回の反省を踏まえ、プロフィールに好感度がよさそうな趣味を書く、感嘆符や絵文字を使うなど「いいね!」をもらえるように試行錯誤しています。
ただ困ったことが一つありました。
プロフィール写真用の写真がなかったからです。
もっと正確に言えば自分が写った写真がほぼありませんでした。
携帯電話の写真の履歴をさかのぼりましたが、自分の写真が何とすくないことか…
どうにか見つけてそれを現在のプロフィール写真として使用していますが、いまだに納得できていません。
生まれて初めて、よい自分の写真を撮りたいなという欲求が生まれてきました。
いきなり話は飛びますが、イタリア留学中に知り合ったイタリア人の女学生と日本人の留学生と食事に行く機会がありました。
運河上に浮かぶコテージの上で食事を終えた後、記念に写真を撮ることになりました。
夜も深まり幻想的な雰囲気のヴェネツィアで街灯の下、3人で撮りました。
一枚目を取り終えると、そのイタリア人の女の子は
「私の写りが悪い、街灯の光の当たる角度を変えよう」と言いました。
写真を撮ることがあまり好きでなかった私は「たかが写真で何を言ってるんだこの人は」と思いましたが、少しお酒が入っていたこともあり笑いながら付き合っていました。
しかし2回3回4回とその回数はどんどんと増えていき、彼女が納得するまでしばらくの間写真を撮っていました。何枚撮ったか全く覚えていません。
ここまでくると「ブラーバ(brava:素晴らしい)」の一言です。
その時は全く考えもしませんでしたが、自分がどう映ったら完璧に見えるのかそれを探求し続けるその姿勢は素晴らしく、自分自身を客観的に分析できている、あるいは自分に向き合うことができている証拠(自分の欠点をどうしたらわかりづらくし、どうしたら最高の自分をひきだすことができるのか)であったと思います。
それは今だから思えることです。
私は自分の写った写真を見ることは好きではありません。
だから、できるだけ写りたくありませんでした。記念にということで写真に納まるということはありましたが、自ら進んで撮ってもらうことはありませんでした。
その理由は、自分の姿を見たくなかったからであり、自分というものに向き合いたくなかったからです。
写真を見るとどうも自分の嫌なところにだけ目がいってしまいます。
写真は自分の姿を客観的に写すもので(鏡もある程度はそうですが)、自分が普段見たくないところをありありと写してしまうものです。
通常自分の姿は自分で見ることはできません。
そのため、見えない部分はある程度こんな感じかなと想像で補っているところが人間にはあります。
つまり自分の見える一部分を頼りに美化して自己像を完成させています。
しかし、写真に写った姿をみるとイメージしていた自分と違うということが起き、自分はこんなはずではないとなります。
だからこそ、実際の自分の写真など見たくなく写真を避けるようになったと思います。
それが今になって写真にきれいに映りたいという欲求がわいてきたことは、少しずつ不完全な自分(現実)と向き合うことができてきた証拠ではないかと思います。
不完全な中でも、現状の最高の状態を引き出そうと何とかもがけるようになってきたのかもしれません。
写真と同じように鏡を見ることも好きではありませんでした。
しかし最近は、鏡の前に立ってその日の着こなしがどうか毎日チェックするようになりました。
そこも自分と向き合うという点からすると以前から進歩したと言える点です。
このように長々と前置きを書いてきたのは、自分について知るということは大きな痛みあるいは苦痛を伴うものではないかと最近思ったからです。
自分の存在を揺さぶる行為といってもいいかもしれません。
大学時代以来、ことあるごとに読み返す本があります。
それは小坂井敏晶さんの『答えのない世界を生きる』です。
フランスで社会心理学者をされている方で、彼の人生や思考方法について書かれています。
その中にこのような一節があります。
人文学では多くの場合、自分自身が研究対象に含まれる。男女差別に関心を持つのはたいてい女性であり、少数民族出身者ならば、人種差別やアイデンティティ危機をテーマに選びやすい。それは研究活動が自分探しにつながっているからである。だからこそ、思考枠を崩すのが難しい。自らの存在を正当化する基盤が危うくなるからだ。時には棄教や改宗にも似た辛い体験をすることもある。そのような深い省察を経て初めて、豊かな見方が現れてくる。研究は頭だけではできない。腑を切り刻み、苦渋に涙を流す身体運動だ。(小坂井敏晶著『答えのない世界を生きる』祥伝社 平成29年 P.86)
この部分では人文学の研究についての筆者の考えや自分のアイデンティティに大きく関わる考えを変えることの難しさについて述べた箇所であるが、自己分析についても全く同じことが言えると思います。
つまり、自分について知ろうとすることは自己の存在を揺るがすような苦痛を伴う行為ということです。
私はなぜこの食べ物が好きなのかというものから、なぜ私はこれを仕事としてやりたいのかまで自分に対する問は様々あります。
私の場合、なぜイタリア語を大学時代から今まで勉強してきたのか、ヨーロッパに興味をもち続けてきたのかなどその理由がわからないものは多々あります。
しかしそれらについて考えたこと、考えようとしたこともありませんでした。
それはもし考えていく中で、それらを好きでなかったとしたらどうしようか、自分が今まで生きる活力としてきたものが実はそうでもなかったという結論に至ったらどうしようかという不安がおそらくあったからです。
まさに小坂井さんが先ほどの抜粋の中で述べていたような「腑を切り刻み、苦渋に涙を流す身体運動」を回避していました。
回避をすることで、自分という存在を何とか保とうとしていました。
しかし、それでは本当の自分は(そういったものはあるかわかりませんが)どうなのかわからないままであるということで、自己分析シリーズ第一弾として投稿したのが前回の「なぜファッション?」です。
自分がなぜファッションに興味をもったのか分析する過程は、それほどまでに興味をもっていないという結論に至るのではないのかや自分をだまして興味をもっているふりをしているだけではないのかなど自分という存在を規定する一つの要素が無くなる恐怖を伴いました。
先ほどの小坂井さんの抜粋部分がおぼろげながら自らの体験を伴って実感できた瞬間でした。
もし自己分析をしている時に苦しみを感じた時はそれがうまくいっている基準としてもいいかもしれません。
自分の中にはまだまだ、解かなければいけない自分自身の問いがあります。
それについて考えなければいけないと思いつつも、今回のようにほとんど自分の存在を揺るがさないようなテーマで文章をまた書いてしまったと若干の後悔もあります。
ただこれは忘れないように書いておきたいという思いもあったので今回書きました。
次回は自己分析シリーズの第二弾について書ければと思います。
それではCiao Ciao.
〈参考文献〉
小坂井敏晶著『答えのない世界を生きる』祥伝社 平成29年