ファン・ダイク

そろそろ美術館に行きたいですね
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このタイトルを見て、サッカー選手を思い浮かべたあなた。

 

おそらくヨーロッパサッカーが好きな方だとと察します。

 

そして、芸術家を思い浮かべた方、美術が好きな方かと思います。

 

どちらだろうと考えた方は、私と好みが合うと思います 笑

 

今の人はサッカー選手のファン・ダイクを思い浮かべる方が多いかもしれません。

 

 

ただファン・ダイクさんの中には、同じくらい、いやそれ以上に有名な人がいるのをご存知でしょうか。

 

それは芸術界のスーパースター 芸術家のアントニー・ファン・ダイクです。

 

17世紀に活躍したフランドルの画家で、ヴィルヒル・ファン・ダイク(サッカー選手)からみれば同郷の大先輩にあたります。

 

 

この画家は日本の美術館でも見ることができる数少ない印象派以前の芸術家です。

 

私は東京に住んでいた頃、上野の国立西洋美術館によく行きましたが、そこに彼の手による肖像画があります。(《レガーネス侯爵ディエゴ・フェリーペ・デ・グスマン》)

 

 

その堂々と威厳に満ちた人物を見ていると

 

「自分もこの人に肖像画を描いてほしい」と何度も思いましたし、彼に描いてもらった人にはイギリス国王も含まれています。

 

そのため、私の肖像画を描いてほしいランキングではトップ3に入っています。

 

 

 

そのようなファン・ダイクですが、今回ご紹介したいのは彼の自画像。

 

先日たまたま、ネット上で見つけたのですが、いいなと思ったので今回はその作品について、感じたところを書いていきたいと思います。

 

 

アントニー・ファン・ダイク《自画像》ca. 1620–21 ニューヨークメトロポリタン美術館蔵

 

 

初めて見た時の印象は、「色気がある」でした(正直なところイケメンだな… や自分大好きそうだな… でしたが)

 

どこにそれを感じたかと言うと、完璧から少しだけ崩れた全体のバランスにです。

 

服装は黒・白を基調におそらく当時のフォーマルウェアで完璧に仕上げています。

 

ただ、髪型やポーズによってその完璧さがやや崩されています。

 

左手の指が古代風の建造物の手すりから中指を残して、落ちそうになっていること、またメランコリーのポーズ(肘で頬杖をつくような姿勢 下図)から少し崩れていること、また髪の毛は、きっちりと整えられておらず程よくカールし無造作な印象を与えます。

アルブレヒト・デューラー 《メランコリー》

 

そして彼のこちらに向けた顔の口元が何か言いだそうとしているように見え「え、今シャッター切ったの?」と言いたげです。

 

その当時現在のようなカメラはなかったと思いますが、もしカメラがあったらと仮定してこの絵画のシチュエーションを私はこう妄想します。

 

カッコいい宣材写真を撮ろうと(当時彼はまだ20くらいだったので名前を打っていく必要があります)、様々ポーズを決めているがなかなかいい写真がとれない状態が続いていました。

 

ファン・ダイク自身もやや疲れが見え始めます。

 

そんな時、ファン・ダイクが少し気を抜いていた瞬間、カメラマンが奇跡的にシャッターを切っていました。

 

そしてたまたま取れたのが、この一枚というわけです。

 

仕草や表情などでわずかに完璧な状態から崩しているが、それがわざとらしく感じられないこの絶妙なバランス感がファンダイクの色気を生み出しているのではと思います。

 

 

誰かは忘れてしまいましたが、ある有名なデザイナーが男の最もセクシーな瞬間について

「完璧にきめたスーツスタイルのネクタイを緩める瞬間である」

と言っていました。

 

 

完璧にきめたスタイルがわずかばかり崩れる。

 

完璧な人間よりも、どこか抜けたところがある人の方が魅力的に見えるのと同じです。

 

まさしくこの作品にも、先ほどのデザイナーの言っていたことが当てはまるのではないかと思います。

 

 

加えて言及しておきたいのが

 

「手」です。

 

それも「右手」。

 

すらった伸びているが、わずかに湾曲したこの指。

 

エロティックな雰囲気さえ漂います。

 

黒と深い赤の服、ハイライトによって、そのしなやかな手の白さが一層引き立っています。

 

「この自画像を描いたのは、私です!素晴らしいでしょ」と言わんばかりに、自らの右手を誇示しているように見えます(ヴァン・ダイクは右利きだったのでしょうか)

 

そりゃ、このような美しい手からこのような素晴らしい絵画が生み出されると思わざるを得ません。

 

 

 

さて次に、彼のこの時期の他の作品と比較してみます。

 

それはロシアのサンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館にある作品です。
https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Self-Portrait_(Anthony_van_Dyck_-_Hermitage_Museum) (出典ウィキペディア アクセス日 2021/09/18)

 

アントニー・ファン・ダイク 《自画像》 1622年 エルミタージュ美術館蔵

 

構図はほぼ同じですが、ポーズと服が異なります。

 

もちろんこちらの作品でも色気は健在ですが、メトロポリタンの作品ほどは感じることができません。

 

それは、エルミタージュ版では、ファン・ダイク本人よりも着ている服とその着こなしに目がいってしまうからです。

 

メトロポリタンの服と同じ黒い服に身を包んでいますが、エルミタージュ版ではかなり艶がある素材の服を着ています。さらにそこに光が当たることでその光沢が一層増しています。

 

そして、当時はやっていた傭兵風のファッション、つまりアウターの下から白いシャツを脇や前からとびださせています。

 

完全な妄想ですが、知り合いからかなりいいアウターをもらい、それを自分の手持ちの服と組み合わせ、当時はやっていたコーディネートをしてみてテンションが上がっている印象です。

 

現在の人が、新しい服を買ってそれを流行のコーディネートをして、「どうですか?いいねください!」とインスタグラムやFacebookであげているのと同じであると思います。

 

ただ、メトロポリタン版と異なり、背景の柱がちょうどファン・ダイクの顔の高さでなくなっていることでフレームのように顔と手にフォーカスさせる効果は減退しています。

 

そのため、エルミタージュ版では全体として個性の表れる顔よりも着ているものの方に注意が向きます。

 

おそらくエルミタージュ版では、彼自身が身につけていた服とその着こなしにフォーカスをしていたのだと思います。

 

もらった(あるは買った)服を「こう合わせたらかっこいいじゃん!」と最適解を見つけ、どこか満足げに見えます。

 

 

 

今はなかなか美術館に行くことができませんが、バーチャルの空間で新しい絵を鑑賞することも悪くない経験ですね。

 

美術館に行くとどうしても説明書きの方を読むことに集中してしまいます。また知っている画家や作品に出会うと以前どこかで読んだ内容をなぞるだけになることが多々あります。

 

今回の作品は初めて見ましたし、専門的な資料も読んでおりません。またファン・ダイクが好きといっておきながら彼自身についてもあまり知りません。

 

当然より深く作品を見ていくには知識が必要で今回の試みの限界を示していますが、一つの絵画を見るという純粋な行為のあるべき姿をできたと思います。

 

 

何かを見た時、聞いたときどう感じたのか、それは何故なのかを言葉にして伝えようとする。

 

最後の段階として、専門の知識と合わせて自分の感じたところや仮説が正しいかすり合わせていく。

 

私がまさに先日ここが足りないと上司に言われたところでした。

 

あるコーディネートがあって、それを見てどう思ったのか、それはなぜなのか。そして最後にデザイナーのコンセプトとすり合わせた時に整合性は取れているのか。

 

そのような思考のプロセスをしないとだめだよと。

 

おまえはコンセプトを覚えてそのままお客様に伝えているだけ。

 

まさに、美術館で絵画を鑑賞している時に起きていたことでした。

 

美術館の解説を読んで絵を見て物知りになった気分になったような気がしますが、それは本当に作品に向き合っていないのではと強く思いました。

 

ファン・ダイクの話から外れてしまいましたが、最近の出来事とリンクしたので付け加えさせてもらいました。

 

それでは皆さんCiao Ciao.

 

〈参考文献〉

アン・ホランダー著 中野香織訳 『性とスーツ ー現代衣服が形づくられるまでー』1997年 白水社