薄いレンガ色の街並みが美しい古都。
ヨーロッパのさびしい秋。
夕方になると建物の窓からの柔らかな灯りが石畳に美しく映えます。
一日が終わり、人々が家路につき始めます。
この時間になるとひときわにぎやかな声の聞こえる窓があります。
のぞきこむと帰る前に、一杯飲もうとする人々からでした。
その店はいつも人でいっぱいです。
その店には、奥まで続く長いカウンターがあります。
重厚な木のドアを開けるとベルが鳴ります。
ベルの音を後ろに聞きながら中に入ってみましょう。
ほんのりと顔を赤らめた人々の間を抜け、奥深くまでいくとカウンターの一番奥に孤島のように周りとは隔絶された雰囲気の青年がひとりいます。
黒の革靴、白いシャツに上下黒のスーツを着た20くらいの薄幸そうな白い顔をしています。
そして、静かにグラスを傾けています。
赤紫色をしていることからワインでしょうか。
噂では彼はいつもこの席で、その赤い色の液体を飲んでいるそうです。
ただ彼を目の前にすると、ワインではなくこの世に絶望して自ら毒をあおっているようです。
思わず肩に手を置き「大丈夫かい?」と声をかけたくなります。
しかし、彼を気にかける者はいません。
そしてその店にいない時、彼が何をしているかは誰も知りませんし考えることもありません。
知っていることは、いつもその時間に店にやってきて一番奥の席でワインを飲んでいる。
それだけです。
その日はいつもより少しばかり風が強い日でした。
コートの襟を立て、深く着直し、皆少し早歩きで道を通り過ぎます。
いつものように、そのお店の中を見ると、柔らかな灯り、古ぼけたカウンター、たばこの煙。
ほとんどがいつもと同じです。
ただこの日いつもと違ったことが1つ。
彼の席に先客が。
どうしたものか少し遅れていつもの青年はやってきました。
下を向いたまま指定席を目指して歩いていました。
ただ、視界に赤いヒールが入ったのか一瞬立ち止まりました。
仕方なくいつもの席の隣に座り、何事もなかったかのように飲み始めました。
青年のグラスが半分ほどまでなくなった時、女性が向き直りました。
青年はそれに気づかず、飲み続けます。
長い髪を払い、カウンターに肘をつき青年を見つめています。
そして、
「名前は?」
「半分棺桶に入った者」
「生まれは?」
「もう忘れてしまった。」
「何をしているの?」
「一応ピアノを弾いている」
「どうしてピアノを?」
「気づいたら」
彼女の方から何回か短い質問が続きましたが、彼はそっけなく一言二言答えるだけでした。
その後沈黙が続いた後で…
「あまり自分のこと話したくないの?」
「別に」
「どんな人生送ってくるとあなたみたいになってしまうの?」
青年は、しばし考えた後で急に立ち上がりました。
そしてカウンターに背を向け、にぎやかな方に向かって歩き始めました。
店の一角に、人々が肘やグラスを置く台と化してしまったピアノがあります。
その青年はピアノの前に座ると、鍵盤のふたを丁寧に開けました。
椅子に座ると姿勢をただし、深く息をつきました。
そして彼の繊細な白い指が静かに鍵盤に触れました。
まるで一つの物語が始まるようでした。
その主人公として彼は苦しみ、楽しさ、幸福、絶望などを表情そして音楽で奏でています。
そのような多才な感情をその青年が抱いていたことが不思議に思えるくらい様々に渦巻いています。
そして、白く細い指が最後の一音をさびしく弾き終えました。
憑き物が取れたように、しばらく神妙な面持ちのままピアノの前でじっとしていました。
そして、立ち上がると何事もなかったように席に戻っていきました。
女性は彼と目が合うと満足そうに微笑みました。
その瞬間、青年も少し微笑んだように見えました。
こうしてショパンのバラード第1番ができたといわれています。
出典:ユニバーサルミュージック
ここまであきらめずに読んでくださった方ありがとうございます。
上記の曲ができたいきさつは私は知りません。
全くの想像です。
ただこの曲を聞いているとショパンの人生を想像せずにいられません。
ここにショパンの肖像画があります。
彼の肖像画はいくつか伝わっていますが、私がよく知っているのはドラクロワのものです。
プライドが高く、気難しそうです。
私は彼が口下手だったと勝手に思っているので、人と関わることもそこまで得意ではなかったと思います。
コンサートも大勢がいるコンサートホールよりも、小さなサロンのような空間を好んだようです。
ただ、彼はピアノの詩人と言われています。
多くの人と話すことで交わるのではなく、自分を音楽にのせてピアノで語っていたと思います。
それが彼にとって自分自身を最大限上手く表現できる方法であったからだと思います。
自分を表現するということは、世の中との関りを持つことでもあります。
人間は世の中とつながるために何かしら表現しないといけません。
ある人は、話すことで、ある人は服を作ることで、また別の人は会社を経営することで。
私はショパンと同様(一緒にすることはおこがましいですが)、人と話すことは得意ではありません。
以前の私は「自分を表現すること」=「言葉で話すこと」と考えていました。
ところが、たまたま見た番組で芸術大学に通っている学生が「自分にあった表現方法を見つけることの重要性」を語っていました。
その学生もあまり話すことが得意ではなく、作品を通して自分を表現しようとしていました。
現代社会ではコミュニケーション能力の重要性が言われて久しいですし、私自身その重要性を日々実感しています。
ただ、十人十色と言われるように人が違えば、その人が自分自身を最大限に表現できる方法は違うのではないか。
番組を見て以来そう思うようになってから、自分にとっての最良の表現方法を考えるようになりました。
そして今のところ私が至ったのは 「書くこと」
これが、今のところ一番私自身を上手く表現できる方法であると感じました。
様々なことを思い出しながら、何度も何度も練り上げて少しずつ作り上げていく過程が私には合っていました。
こうして、文章を書いていくと考えていたことが少しずつ形になりますし、書いている時に予想外の発見に出会うこともあります。
それは、テーマを選び、全体の雰囲気を決めるなど一種の芸術作品を仕上げる楽しさがあります。
「書くこと」が今のところ自分を表現しやすい方法ではありますが、今後どのような方法に出会えるかも少し楽しみなところでもあります。
またそれが1つだけでなく、2つ、3つと増えていくと生活も豊かになっていくのではと思います。
現在では、表現の方法はかなり多様になってきたため、自分にあった手段を見つけることあるいは創り出すことができればもう少し生きやすい世の中になると思います。
そしてそれを受容する広い心をもった社会あるいはコミュニティーがあれば、日本ももう少し世間の目を気にすることが少なくなるかもしれません。
本日もご精読ありがとうございました。
それではみなさんCiao Ciao.