大学時代に、論文を読んでいた時のことです。
ヴェロネーゼというヴェネツィアで活躍した画家の肖像画についてでした。
ヴェネツィアの提督や貴族を描いたものでなぜか甲冑に身を固めた肖像画ばかり。どちらかというと神話画や女神の絵画の方が好きですが、その時は甲冑姿のおじさんたちを毎日眺めていました。
その論文の中で、バルダッサーレ・カスティリオーネが書いた『宮廷人』の話が出てきました。
この『宮廷人』という本は、宮廷の中でいかに出世するのか、そのために身につけておくべき能力などを書いたものです。
今でいう会社で出世するためにはどうしたらいいのかを書いたノウハウ本のようなものです。
その本の中で、カスティリオーネが繰り返し使っている単語があります。
Sprezzatura (スプレッツァトゥーラ) です。
日本語には、「さりげなさ」と訳されています。
これがとにかく宮廷人になるためには必要らしいです。
(↓この人です。白黒グレーでまとめているあたり、そして素材感とドレープ感で、奇抜なデザインに頼らず違いを生み出してきているあたりはさすが「さりげなさ」を主張するだけあるなと思いました。)
その本を全部読んではいないので具体的にどのようなことを語っているかは知りませんが、現在の『宮廷人』と言えるような「新入社員の心得」というような本を前の会社の先輩に貸していただいたことがあります。
その中に、バレンタインデーの話が書かれていました。注意点としては2つ。
その1 一人だけ高いものを渡さない(事前に予算を合わせておく)
その2 抜け駆けせずに、同じタイミングで渡す
現代の会社でうまく立ち回るためには、当時の宮廷人と同等の努力が必要なようです。
当時読んでいた論文では、『宮廷人』の抜粋を挙げながらさりげなさや宮廷人の必要な資質について説明していましたが、遠い大学時代の記憶のため、忘れてしまいました。
ただ私個人的にカスティリオーネの言う「さりげなさ」は、イタリアからイギリスに飛び、ダンディーに引き継がれているにではないかと思います。
今でこそダンディーはちょっとお洒落なおじさまに使う陳腐な言葉となってしまいまいたが、ダンディー黎明期のイギリスではなかなかなることが難しかったようです。
産業革命の影響もあり、今まで普通の庶民だった人物が財力をつけ貴族を凌ぐほどになりっていました。その結果、彼らは様々な権利を主張するようになります。
そのような状況を当然ながら、今までの特権階級である貴族は快く思わないわけです。
自分達と新興ブルジョアを何とか差別化しなければなりません。
そこで彼らが持ち出してきたのは、振る舞いや教養などなかなか身につけることが難しいく、お金では買うことのできないものでした。
そのようなやや落ちぶれてきた貴族が、新興勢力になんとか飲み込まれないように編み出したものがダンディーでした。
そのダンディーの中のダンディーと言われている人物がボーブランメルです。
彼はとにかくおしゃれで有名でした。
今でいうネクタイの結び方を完璧にするために数時間かけていた話や靴の裏側をシャンパンで磨いていたなど数々の逸話も残っていますし、当時のイギリス国王が彼にスタイリングについて意見をあおいでいたそうです。
彼は様々な名言(迷言?)を残していますが、その中に
「通りですれ違った人に振り返られるような服装はしてはいけない」
というものがあります。
つまり身なりはきちんと整えるが、そこに苦労の跡や私おしゃれしてます感を出してはいけないということです。
がんばって服装気にしていますという感じを出しすぎると、つまりやりすぎると逆にかっこ悪いということです。
この精神は、現在の時代にも生きていると思います。
先日、たまたまマフラーの巻き方5選というような動画を見ていました。
(出典:KANAKOおしゃれ迷子のオシャレ探し 40秒あたりです。)
当然巻き方を5つ紹介する動画でしたが、最初に注意点があると。
それは何かというと、「マフラーに自然な襞を作ること」でした。
襞を作らずにそのままマフラーをまとうと、どこか作為的な印象が生まれてしまい不自然な印象を受けます。
しかし、自然な襞をあらかじめ作ってからマフラーを身に着けてみると襞による自然な立体感が生まれると同時に無造作な雰囲気が生み出されていました。
これはとても不思議な現象でした。
時間をかけてはいるが、それを感じさせることのないような自然体。
まさに、ボーブランメル時代のダンディーと同じ精神であると思いました。
現在は、「映える」が何と言っても必要な時代です。
奇抜なものや目立つものが取り上げられがちであります。
そういったものを街中で見かけると確かにかわいいし流行に敏感な方なんだと思います。
ただその人自身ではなく、ものの方に目がいってしまします。
身に着けているものをうまくコントロールできていないゆえかと思います。
服は昔こそ、手で作っていたのである意味ですべて自分の体に合うように作られたオーダーメイドです。
しかしながら、今は既製服の時代。
S・M・Lなどとサイズがありますが、完全にその人に一致するものはないに等しいです。
そのサイズ感の中で、組合せによって、自分をどのように見せたいかによってサイズを選び服を少しずつ調整していかなければいけません。
裾をズボンの中に少し入れる、袖を折る、あえてサイズ感の大きいものを着るなど。
その少しの調整、着こなしが積み重なると全体として大きな違いとなり「どこが違うかわからないけど、あの人おしゃれ」という印象につながるのではないかと思います。
さりげなく少し考えてもわからないような仕掛けを幾重にも施し全体として素晴らしい効果を生み出す。
私の文章もそうあってほしいです。何かいいこと書いてありそうだなとは思うが一読するだけ、タイトルを見るだけではわからないようにし、最後まで読んで、また何回か読んで初めてそうだったのかと謎が解けたような文章を書けるといいなと思います。
それではみなさんCiao Ciao.
〈参考文献〉
佐々木健一著 『美学への招待』 中公新書 2004年
中野香織著『スーツの神話』文春新書 平成12年