Maruyama da Gunma 2021年の気づき

たまには自分自身を見つめてみませんか オディロン・ルドン《目を閉じて》オルセー美術館蔵 1890年
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遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。

 

今年もよろしくお願い致します。

 

昨年も気づいたら過ぎ去っていました。

 

これは言い古されたことではありますが、年齢が上がるとともに時間が過ぎ去っていくのが本当に早くなっています。

 

一年を遅ればせながら、振り返ろうとすると何があったか、何を考えていたのかぱっと思い出すことがこれまではできませんでした。そもそも振り返りをすることもなかったですが…

 

しかし、今はこうしてブログを書いているので「あの時はこんなこと考えていたんだ」と「そう言えばそうだった」と思うことがいくつかあります。

 

本ブログは、「世界の誰かひとりに届き、それを見てくださった方に何かしらプラスに働いてくれればという思い」で書いていましたが、思いがけないところで書いている自分自身が助けられました。

 

 

今回はMaruyama da Gunmaの2021年の振り返りをしたいと思います。

 

昨年の私の大きな気づきは主に4つです。

・自分自身を知ることの重要性

・仕事をするうえでの心構え

・1つ1つを丁寧に理解する

・絶対的な答えはこの世の中には存在しない

 

 

1つずつ見ていきたいと思います。

 

まず1つ目の「自分自身を知ることの重要性」です。

 

これは2021年のブログに重層低音のように流れており、時として主旋律をなしていたテーマです。

 

自分自身を知ることについては下記の「自己分析」というタイトルの記事で詳しく書きました。

 

この記事は2021年に書いた記事の中で、内容の面で一番の出来栄えであると同時に最も大きな発見となりました。

 

自己分析

 

 

それまで、自分のことをよく知っていると思っていました。しかし、自分の好きなもの、例えば私の場合だとサッカー、ヨーロッパ、ファッションなどどうしてそれが好きなのかを考えてみるとどうもわかりません。

 

何となく好きではあるが明白な理由はわからない状態でした。理由はわからないし、そもそもどうしてそれらが好きなのかを考えようとも思いませんでした。

 

そこで、ファッションがなぜ好きなのかについて自己分析してみた記事が下記の「なぜファッション?」です。

なぜファッション?

 

ファッションがなぜ好きなのか考える過程で思ったことは、自分自身について知ることは「苦痛を伴う」ということでした。

 

この世の中には私というものを定義するものは数多くあります。

 

私の場合、群馬県出身、サッカーが好き、海外旅行が好き、やせすぎているなど様々な要素が絡まり合ってMaruyama da Gunmaという世の中に一人だけの存在として規定されています。

 

しかし、その要素が、もしかすると自分を規定するものではないかもしれないと考えた時に少し動揺しました。

 

先の記事では「ファッションが好きである」という要素が私を規定するものではないと疑いをかけてみました。その結果なんだか自分自身の存在も危うくなってしまうような気分になりました。

 

自分自身で納得いく答えをなかなか見出すことができないと、私はもしかするとそこまでファッションが好きではないのかもしれないと怖くなります。

 

それが、もし人生の中で一番の自分を規定する要素であると「思っていた」のであればその恐怖はより一層増大します。

 

私は小さいころからヨーロッパ世界に惹かれていましたが、この歳になってもなぜ惹かれているのかはっきりとはわかりません。

 

この記事でも2回ほど考えたことはありますが、まだ納得いく答えを見つけ出すことができていません。それは心の奥深くで、もしこのまま考え続け「私はヨーロッパ世界がそこまで好きではなかった」という結論に至ることが怖いというのも考えを先に進めることができない一番の要因だと思います。

 

もしそのような結論に至った場合、これまで私をかりたたてきた動力源であるものがそのままなくなるため、今までの私の人生をどう考えればいいのかわからなくなると思います。

 

私のこの28年間はいったい何だったのか。

 

きっとそう思うに違いありません。

 

社会心理学者小坂井敏晶さんの著書『答えのない世界を生きる』で、人文学の研究について述べた下記のような箇所があります。

 

人文学では多くの場合、自分自身が研究対象に含まれる。男女差別に関心を持つのはたいてい女性であり、少数民族出身者ならば、人種差別やアイデンティティ危機をテーマに選びやすい。それは研究活動が自分探しにつながっているからである。だからこそ、思考枠を崩すのが難しい。自らの存在を正当化する基盤が危うくなるからだ。時には棄教や改宗にも似た辛い体験をすることもある。そのような深い省察を経て初めて、豊かな見方が現れてくる。研究は頭だけではできない。腑を切り刻み、苦渋に涙を流す身体運動だ。(小坂井敏晶著『答えのない世界を生きる』祥伝社 平成29年 P.86)

 

この部分では人文学の研究についての筆者の考えや自分のアイデンティティに大きく関わる考えを変えることの難しさについて述べた箇所であるが、自己分析についても全く同じことが言えると思います。

 

つまり、自分について知ろうとすることは自己の存在を揺るがすような苦痛を伴う行為ということです。

 

私が最初に書いた、自分はなぜファッションが好きなのか考えた時に苦痛を伴ったのはまさに自分の存在が揺らいだからでした。

 

 

そして、自分を知るということは趣味趣向はもちろんですが、自分の考え方や行動様式でも必要なことです。

 

私はヴァイオリンをコロナを機に、中学生以来再開しました。

 

ヴァイオリンの練習で気づいた私のくせがあります。

 

それは「できないところから顔を背け、できるところばかり練習すること」「基礎練習に時間をかけず、曲ばかり、それも弾いていて気持ちのいい部分しか練習をしないこと」でした。

 

つまり、ヴァイオリンでいい音を奏でるという目標に対して、どこがだめで、どこを改善しないといけないのか「現実を直視することができていない」というのが私の問題でした。

 

できないところを練習していると気分はよくありません。

 

上手く弾けないし、いい音は出ないし苦痛でしかありません。

 

しかし、その嫌悪感を超えていくとやはり音が少しずつ変わってきます。

 

それ以来、苦痛やストレスを伴っている時というのは何かがいい方向に動いている証だと思うようになりました。

 

その他仕事や生活をしているうえで私自身が自分について知ったことは、

 

・多くのことを一気に短期間で集中的にできない。だから、1つ1つのことにじっくりとこつこつ取り組んでいく。

 

・頭の中だけで考えていると同じことを何度も考えてしまい、考えているようで何も考えていない。だから、頭の中で考えていることを文章に起こしていくことで、考えを深めていく。

 

・目の前の自分の課題に向き合い、ゆっくりと時間をかけてよくしていく。

 

・あらゆることに唯一絶対の答えがあると考えている。いつも「正解」を探そうとしている。学校での一つの問題に唯一の答えがあるという思考から脱却できていない。だから、まず絶対的な答えはこの世に存在しないことを念頭に置く。そのうえで、答えを探すのではなく、答えを創り出そうとする。

 

・仕事は与えられるものではなく、自分で創るもの。待っていればやってくるものではなく、自分で考え必要だと思うことをする。

 

・ある会社で働いている以上、新入社員だろうが、何十年働いているベテランであろうがその会社の社員であることに変わりはない。周りからみれば、全員が同じくその会社の社員であり、その会社が関わることのプロフェッショナルと見なされる。経験がないから仕方がないと考えるのではなく、その時々の全力を出す。

 

・派遣社員のため、1か月ごとの契約更新であるが更新が当たり前の環境に慣れきってしまっており、仕事中に手を抜くことがある。手を抜くということはプロフェッショナルとして失格であるし、毎日が契約更新を獲得できるための勝負という危機感がない。

 

・わからないことは後で考えようとそのままにしてしまっている。わからないことは、人に聞く調べるなどしてその日の内に解決する。

 

こうして書いていると、自分を知るという項目に、2021年の主な気づきである他3つ、「仕事をするうえでの心構え」「一つ一つのことを丁寧に理解する」「絶対的な答えはこの世の中には存在しない」についても関係し、その中に含まれることに気づきました。

 

どれも以前はこうであったが、そうではない事象に出会い新たな見解を持つに至るという自分自身を知ることの傍流であったからだと思います。

 

この中には何をいまさらと思われることもあるかもしれません。

 

しかし私にとって重要なことは「頭で知っている」「誰かから聞いたこと」であったとしても、実際に自分自身の体験をもって知ったことです。

 

ヘルマン・ヘッセ『シッダールタ』には次のような一節があります。

 

主人公であるシッダールタが、苦行者として修業し、金持ちになって贅沢に溺れたりなど様々経験した後で、

「知る必要のあることをすべて自分で味わうのは、よいことだ」と彼は考えた。「世俗の喜びと富とが善いものではないことは、自分は子どものときにもう学んだ。それは久しい前から知ってはいたが、体験したのは今はじめてだった。今自分はそれを知っている。記憶で知るだけでなく、自分の目で、心で、胃で知っている。自分がそれを知ったのは、しあわせだ!」

ヘルマン・ヘッセ著 高橋健二訳『シッダールタ』新潮社昭和46年 p.126-7

2022年もこのような「体験」をもって知ることがいかに多く経験できるのかは、自分自身を知ることの恐怖をどれだけ乗り越えることができるかにかかっていると思います。

 

最後にもう一度私自身忘れないために書きます。

 

何かをしている時に「苦痛」が伴うときはそれはいい方向に向かっている兆候である。

 

今年も良い年になりますように。

 

それではみなさんCiao Ciao.