美術館・博物館での音声ガイドなしのすゝめ

ヴェネツィアで開かれていたスキアボーネの展覧会
芸術

学校の授業で、肝心な内容は全く覚えていないがどうでもいい話はよく覚えていることはありませんか?

学校生活の中で1回や2回みなさんも経験があるのではないかと思います。

いくつかあるうちの1つに大学時代の美術史の授業での話があります。

授業で東京の展覧会に行き感想を書くという宿題が出ました。

その時に教授が「音声ガイドあれはよくないね」とおっしゃっていました。

その教授によると

・音声ガイドをつけるとなんか勉強しになった感じになる
・ガイドに言われたところしか見なくなる

確かにそうだと自分も思いました。

仕事でも学校でもいろいろな場面で独自性が叫ばれて久しいです。

にもかかわらず、音声ガイドである一定の見方を押し付けるのはちょっと残念な感じがします。
(展覧会の重要な収入にもなっているのではないかとは思うのですが…)

 

自分は本来的に美術の「正しい見方」はないと思います。

10人いれば10通りの見方があっていいと思っています。

 

また、美術作品を見た時になにかまじめなことを言わないといけないとか一定の見方があるのではないかという風潮がある気もします。

みなさん芸術を堅苦しく考えなくてはいけないとお考えじゃないでしょうか?

教養がありそうなことを言わないのかとお考えじゃないでしょうか?

正直、この聖人はいつもこういったものをもっているからこれはこの聖人だというのは調べればわかることです。

もし言われたとしても、その後の会話で「あー、そーなんだ」で終わりですし、話が広がりません。

それよりも「これ誰かに似てるよな」とか「〇〇がこんな風に描かれててかわいい!」とかの方がその見てる人の個性やそこ注目するんだ!などの発見があってよっぽど楽しいと思います。

 

そうなんです!思ったままを言えばいいんです!

 

人間によって生み出された芸術。

人間の世界に答えがないように、その人間によって生み出された芸術の見方にも答えがないのではないでしょうか?

 

たとえ作者が意図したこととは異なる印象を持ったり、解釈したりしても新たなアイディアの源泉になったとしたらそれはそれで結果オーライです。

 

オペラも、もともとはイタリア人が古代ギリシャの悲劇を再現しようとした際に、全部が歌によって上演されていたと勘違いしたことから始まっていますね。

他にも探せばそういった例はたくさんあると思います。

自分で考える力をつけるために

昨年からセンター試験に自分で考える力を図るために筆記を加えるかということが議論になっています。

世の中が「考える力」は必要だとやっとわかってきました。

でも結局いつの時代も

 

自分で仮説を立て、それを実行し、結果を分析し、再度仮説を立て直しまた実行。

 

人生すべてこれに集約できるのではないかと思います。

いままで表に出てこなかっただけで実はいつの世にもこの「考える力」は人間が生きていくうえで重要なものだったと思います。

美術作品をみていると「ここはなんでこういった描き方なのか」「なんか不安になる絵だな」とかいろいろ心に思い浮かびます。

 

それに対して、「なぜか」と考えることが重要です。

 

そうやって深堀していくだけでも、考える力がつくのではないかと思います。

さらにそれを友人に話せば、相手の意見も聞けるのでさらに自分の考えを洗練させることができまたあらたな仮説を立てるきっかけにできます。

教養のさらに向こうへ

最近だと「教養」という枕詞のついた書籍が巷にあふれています。

西洋美術史もその一つに入っています。

確かに知っていることは知らないよりもいいことかと思います。

が、どの画家がどんな描き方をしたとか何を描いたとかはあまり重要なことではありません。

 

ほかならぬあなたがその作品を見てどう感じたのかが重要なんです。

 

会社で働いていると日々仕事を与えられますが、なぜあなたに任されているのか考えたことはありますか?

 

そうなんです!ほかならぬあなたに、あなたのやり方・方法で解決してほしいのです。

 

展覧会に行くというとちょっとお堅い感がありますが、実はもっと気軽でいいものなんです。

 

見て何考えてもいいんです!(川平慈英風)

 

時代はあなたの独自性(考え方)を求めています。

それを養うために、音声ガイドなしで感じたままを語ってみてはいかがでしょうか?