芸術家でも、見ればすぐにこの人が描いたものとわかる人がいる。
やることなすことにそんな「らしさ」がでる人間になりたいMaruyama da Gunmaです。
先日フードコートで晩ご飯を食べていました。
私の斜め前に、おじさんがいて天ぷら付きのうどんを食べていました。
格好は(失礼な言い方になってしまいますが)客観的に見ておしゃれだとは言えません。
スーツを着ていますが、スラックスは裾が長すぎて、かなりクッションもできています。
ジャケットもサイズが合っていませんですし、その中に着ているセーターもゆるゆるです。
ただなぜか深みがある。
その方にしか出せない雰囲気がものすごく出ています。
うどんの入った碗をあげる腕の角度、うどんをすくって口まで持っていく動き、そういった一つ一つに何かしら風格のようなものが漂っています。
その人だけしか持ち合わせていない「スタイル」を感じました。
(ここにおけるスタイルとは、その人の動作、持ち物、服装、着こなしなどのあらゆる部分にその人「らしさ」があることとします)
その方を見ると、果たして自分が所作や着ているものから、Maruyama da Gunmaにしか出せない雰囲気を出すことができているのか考えてしまいました。
おじさんがうどんを食べている間、近くを短いジーンズのズボンにブーツ、そして丈の短いヴォリュームのあるダウンを着た若い女の子が通りました。
確かに客観的に見れば女の子の方が断然おしゃれです。
ただ、どちらがその人にしか出せない味があるかというと圧倒的におじさんの方でした。
最近読んだ本の中で、パリの人はあるものを身に着けた時に、自分らしさが出るかどうかを一番重要に考えるそうです。
そのためたとえブランドものでいいものがあったとしても、それが決して自分に似合わないものであったとすると買うことはしないそうです。
先日読んだ本にフランスと日本での持ち物のほめ方の違いについて、
フランスで常々感じることは、人のファッションについて誉めるとき、「そのセーターの色、きれいだね。あなたの瞳の色にぴったりだ」とか、「そのアクセサリー、髪の感じにとても合っている」というふうに、男性でも女性でも何か相手の属性に触れるところで誉めることだ。それに対し、日本では「そのバック、最新モデルでしょ。かわいいね」というように、アイテムそれ自体を誉めることが多い。(『東京・パリ・ニューヨーク ファッション都市論』 南谷えり子・井伊あかり著 平凡社 2004年 p.76より引用)
まさしくフランス人はその人「らしさ」が表れているのかを重視しています。
翻って日本の場合ですと、少し街を歩くだけでもブランドのバックや服を着ている人が多い印象を受けます。
それが年代の高い世代だけでなく、若い人でもルイヴィトンやグッチのバックを持っている人はかなり多いです。
逆にヨーロッパだと、若い人がブランド物を持つことは少ないそうです。
これは、シャネルはシャネルのイメージ、エルメスはエルメスのイメージがすでに出来上がっているので、どういう人にふさわしいものであるのかといった一般的なイメージが強いのではないかと思います。
それに相応しくなるまでは決して持たないような感じであります。
日本の場合ですとルイヴィトンやシャネルといったブランドについて、ヨーロッパほど熟知している方は少ないため若い人でもそれほど抵抗もなく身につけることができるのでしょう。
私はブランドの歴史も知らないくせに、ブランドの考え方も知らないくせにそのブランドのものを持つなと言いたいのではありません。
逆に日本ではそういった歴史を知らない分、普段の服装に自然に取り入れることができている(人によりますが)かと思います。
自由な発想で組み合わせることができているともいえるでしょうか。
若い時からブランドのものを持つことは否定はしませんが、やたらめったら若い人でもハイブランドのものを持っている人が溢れすぎているような気がしてなりません。
ここには一種の「ブランド崇拝」があるような気がします。
(なぜ人はブランド物を身に着けるのか書いた記事もありますので是非読んでみて下さい)
考えてみると日本人はファッションに限らず「ブランド」に強いこだわりがありそうです。
どの大学をでたのか、どの会社で働いているのかなど、特に日本では名前(ブランド)によってその人に対する見方が大きく変化する傾向にあると思います。
今私自身派遣社員として働いていますが、大学の名前を言うと「そうだったの」と驚かれることがあります。
それはその人自身がどうかというのではなく、その人を肩書だけ、ブランドだけで判断しているからに他ならないでしょう。
また以前あるラグジュアリーブランドの地域別の年間の売り上げのグラフを見たことがあります。
その地域の区分分けで「ヨーロッパ」「アジア」などの区分の中に「ジャパン」という区分があった時は驚きました。
もちろん日本が豊かな国で人口がそこそこいるということが要因であるとは思います。
ただそれを考慮に入れてもこれは驚くべきことです。
このことからも日本人のブランド好きはわかるかなと思います。
ではなぜ日本人がそこまでブランドにこだわるのでしょうか?
その理由はそれを持ってればある程度は恥ずかしくはない、有名ブランドのものを持っていれば間違いないという思い込みがあるのではないかと私は思います。
自分自身に自信がなく、良くないもの選んでしまったらどうしようかという不安の裏返しともいえるかもしれません。
私はブランド物の存在を否定したいのではありません。
ただなんの吟味もなしに「ブランド品=絶対にいいもの」という考えがあまりにも強すぎるのではと思います。
これはある意味で思考の放棄です。
一番はそれらを身につけた時に、ものが目立つのではなくその身につけている人の個性が引き立つことです。
つまり自分のスタイルに合っているかが重要であると私は思います。
街に出て少し周りを見てみてください。有名ブランドのものをしっかりと着こなせている人がどれだけいるでしょうか。
私が見るにあからさまにブランドの方が目立ってる人が大半ではないかと思います。
日本では「これをやっておけば大丈夫」、「これをすれば間違いない」、「これだけ覚えれば大丈夫」などという文言とともに、出される情報が多いですし、それに飛びつく人も多いです。
インターネット上でも、上記に挙げたような言葉を枕詞にしたサイトや本であふれています。
それだけ失敗や時間を無駄にしたくないのでしょう。
ただそういった情報に踊らされているだけで、自分の頭で考えなければ、その結果としての行動、そしてそれの積み重ねとしての人生に深み、つまりその人「らしさ」というものは出てきません。
「個性」ということが言われて久しい時代ですが、私は何も奇をてらったことをする必要はないと思います。
自分の頭で考える
これをするだけで十分他の人とは差別化できるわけです。
個性が出てくるところは、その人の人生からです。
それぞれ育った環境が違うわけですから、当然持っている価値観や将来の展望も異なるわけです。
ただ近年はインターネットの発達により、多くの人が同じ情報に、検索結果の上位にアクセスするために見る情報、そしてそこから起こすアクションも均質化してきているのではないかと思います。
服はこういったものが今は流行っているからそれを着るということもその一例かもしれません。
産業革命の時代に活躍した芸術家であり、社会主義者のウィリアム・モリスという人物がいます。
彼は機械による大量生産により、世の中に粗悪なものがあふれたため、人々の生活がすさんでしまっていると指摘していました。
そして粗悪品に代わり再び生活の中に芸術を根付かせ、その芸術によって世の中を良くしようとしました。
また粗悪品の氾濫によって、美しいものを作るという労働に対する喜びやそれを見る人の喜びが失われつつあると考えていました。
その中で彼は芸術家が素晴らしいものを作ることは当然であるが、見る側にもその良さを理解する能力が求められるとしています。
そのため、彼が重要なこととしてあげているのが
自分で考えること です。
著書の中で、
考える人間をつくる全般的教育が、芸術についても正しく理解させることにいつかはつながるが、皆さんは、それでは、あまりにも当たり前すぎると思うだろう。当たり前ではあるが、私は本当にそう信じているし、じっさい、それで勇気づけられる。(『素朴で平等な社会のために—ウィリアム・モリスが語る労働・芸術・社会・自然― ウィリアム・モリス著 城下真知子訳 せせらぎ出版 2019年 p.87より引用)
これは芸術について言及したものですが、あらゆる物事に当てはまるのではないでしょうか。
結局のところ、自分でいろいろ考え、試し、失敗しながら、月日を重ねていくことがその人自身の「スタイル」の形成につながるのではないかと思います。
そして、その人「らしさ」を最大限に発揮していくことがこの世の中のためにも、その人自身の為にも幸せなことであります。
ただその流行りのものに負けない、意志の強さのようなものは日々の思考の鍛錬から生まれます。
どうか、巷にあふれる情報に一喜一憂するのではなく、自分のスタイル形成のために、じっくりと時間をかけていろいろ試してみてください。
きっとあなたの「らしさ」「スタイル」が世の中にとって、自分自身にとって大きな財産となるはずです。
時間はかかることですが、piano piano buono buono の精神で行きましょう。
(別の記事でこの言葉の意味についても書いているのでぜひ読んでみてください)
この言葉を自分にも言い聞かせながら、今日も過ごします。
それではCiao Ciao.
《参考文献》
『東京・パリ・ニューヨーク ファッション都市論』 南谷えり子・井伊あかり著 平凡社 2004年
『素朴で平等な社会のために—ウィリアム・モリスが語る労働・芸術・社会・自然―』 ウィリアム・モリス著 城下真知子訳 せせらぎ出版 2019年