ヨーロッパの町にあこがれる理由

ペルージャのピアッツァ(広場)
イタリア

クリスマスの時期が過ぎました。

 

いつ頃からは忘れてしまいましたが子供の頃と比較するとほとんどわくわくといった感情があまりわいてきません。これが普通なのか。けれど、そんな自分に少しさびしさも覚えます。

 

この前のイタリア語のオンラインレッスンでクリスマスの話になりましたが、この文化がそういえばヨーロッパの文化であったことをやや忘れかけてしまっていました(商業主義のせいです!)

 

ヨーロッパのクリスマスを体験したのは1回。

 

留学中のことです。

 

その頃はまだ大学の寮に住んでいました。日本では考えられませんが、寮を管理する人たちもクリスマスで実家に帰るからクリスマスから年始にかけて閉まるから強制退去しないといけないとのことでした。

 

そんな話あるかと思いつつも、この期間を利用してイタリア国内を2週間ほど旅行しました。

 

クリスマスはフェッラーラで、見ず知らずのスロベニアからの移民の家族とシュニッツェルを食べて迎え、その後も友人の住んでいたマルケのいくつかの町やアッシジ、フィレンツェ、シエナ、アレッツォ、モデナ、マントヴァを回ってきました。

 

やっぱりヨーロッパの町はいいなと思いました。ただその時は日本と違って町によって個性があるところがよいところだと思っていましたが、何か別の理由があるのではないかと今考えています。

 

それは同じ空間に何層もの生活が積み重なっているからであると思います。

 

 

私が1年間住んでいたヴェネツィアは少なくともそうでした。

 

 

 

同じ空間の中に、大学、住居、市場、教会、酒場、美術館、広場が入り込みそれが別々の空間を占めるのではなく、複雑な織物のように編み込まれています。

 

地元の方、学生、観光客が同じ空間を歩き、絶えず接触している。

 

だから街を歩いて、広場に出るとそこでは地元の子供たちが遊んでいますし、その横で観光客が地図を見ながら次どこへ行こうか考えていたり、決まった曜日に出て来る魚屋さんがあったりと様々な生活や人生が重層的に重なりあっています。

 

その中に自分が入っていきますと、様々な生活にその一つの空間で触れることができます(後述しますが、日本の多くの都市の場合、買い物ならここ、住居スペースはここなどそれぞれが分割されています)

 

 

ヴェネツィアには、学生が集まるカンポ・サンタ・マルゲリータという広場があります。

 

学生の間でカンポというとこの広場を指していました。

 

ここは広場を囲むように、バールやレストラン、ピッツェリアがあり、夜になると学生のたまり場になっていました。

 

学生だけでなく、地元の方々、観光客も入り混じっており、多くの人が広場の周りにあるバールでお酒を買ったり、あるいは持参してきたものを広場に座りながら飲んで食べて話していました。

 

友達と飲んでいますと、その友達の友達がほとんどの場合、やって来て一緒に飲み始めるようでした。

 

勝手に人が出会い、まじりあう空間にヴェネツィアはなっているなと思いました。

 

日本では居酒屋で飲んでいても隣のグループと話し始めることはなかなかないですし、東京の場合は都市の規模自体が大きすぎて事前にアレンジしない限り、ばったり知り合いのグループと出会うことなどは珍しいです。

 

加えて、そういった広場に教会が面していたり、古くからの建物が残っていたりと時間的な深さもプラスされるため、地面に座りながら友人とお酒を飲み、どんどん一緒に飲む人が増えていくことはとても楽しい経験でした。

 

 

こうした多くの人の生活が重なる重層的な都市になっているのは、都市が人間のスケールにちょうどあっているからだと思います。

 

ヴェネツィアの町はとてもコンパクトで、離島などは船を使わなければいけませんが、大学の図書館、教会、美術館、劇場、スーパーにすべて徒歩で行けます。

 

だから生活するには歩くだけで事足ります。

 

ヴェネツィアに住んでいた時は毎日結構な距離を歩いていたなと思います。車よりも時間がかかってしまいますが、歩くのはとても楽しかったです。

 

そして歩いているとなんというか「生きているな」という感じがしました。

 

自分の足でしっかりと地面を踏みしめ、歩いた後は少しばかり身体的な疲れを感じるからでしょうか。

 

 

私は今実家である群馬県に住んでいます。

 

住んでいる場所は住宅地の中で、周りには同じような一軒家がたくさんあります。

 

郊外のほぼ住宅地だけしかないところです。

 

生活スタイルは、少し離れたスーパーに車で買い物に出かけ、そこで事足らない時は郊外の大型ショッピングモールに出かけています。

 

ある一定の範囲内に、スーパーや居住スペース、ショッピングモール、お寺などはありますがそれらがスーパーだったらスーパー、住宅地であれば住宅地と一つ一つが分割されて存在しています。

 

そのため、その空間が地元の人々の住む場所であり、観光客が来る場所であり、学生のたまり場であるといった複数の機能を持っていません。

 

パフェの具材を縦長の器に入れて何層になっているのではなく、ただ平べったいお皿にそれぞれの具材が混ざることなく、平然と置かれているような感じです。

 

ヨーロッパの都市の場合は、縦長のガラスの器(一定の空間)にしっかりと何層にもわたって具材(人々の生活)が入れられている状態であります。(そのため、スプーンという自分がその中に入っていくと同じ空間の中で様々な生活(具材)に出会うことができます)

 

 

鉄道や車が発展し我々は様々な場所に行くことができるようになってしまいました。

 

できるようになってしまったがゆえに、こうして同じ空間にありながら様々な要素がまじりあうことなく存在するという少し無味乾燥した淡白な空間になっているような気がします。

 

発展発展とだいぶ前のめりに人類は生きています。

 

そのためにその都市の拡大に対して人間の成長が追い付けておらず、人間の規模に合っていないのかもしれません。

 

 

少子化が長らく問題になっていますが、個人的にはあまり問題だとは考えていません。

 

どうして無理して増やす必要があるのかわからないからです(年金の担い手がいなくなるからでしょうか)

 

むしろこれを機に都市の規模を小さくしぎゅっと一部に濃縮したほうが、本来の人間のスケールに合った生活空間に戻るのではないかと思います。

 

少し前のめりになりすぎているので、むしろ範囲を広げていくよりも密度や深度を深めていく方がこれからの時代に合っているのではないかなと思います。

 

人のスケールに合った都市の大きさと様々な人々の生活や人生が重なる重層性。

 

これが私がヨーロッパの町に惹かれる理由でないかなと思います。

 

日本でもこのような都市は少ないながらもあると思うので、コロナ後は国内の都市を巡ってみたいものです。

 

また早く旅行ができるようになる日を願いながら、

 

Ciao Ciao.