集中できる環境を作る

人生について

最近みなさんは旅行に行っているでしょうか。
日本でも10月からGotoが適用になり、日本国内であれば以前と比べると「旅行に行っても大丈夫そうだな」と感じている方もいるのではないでしょうか。

しかしながら、海外旅行のほうはいつになったらまたできるようになるのかわからない状態です。自分自身も大学卒業からこの3年間全く海外に行くことができていないので、残念でなりません。(コロナがなかったとしてもお金と休みの関係でいけませんが…)ただ、ワクチンが開発されまた自由に往来できるようになったらどこへ行こうか考えるのもまた楽しいです。まだイタリアの中で行ったことのないシチリア島、ポーランドでショパンの曲の演奏を聴く、フランスでロマネスク美術を見るなど行きたいところしたいことは次々と出てきます。

 

自分の中でそんな海外旅行に行きたい熱がとても高まっている中、しばらく前に友人がフランスのルーヴル美術館を訪れた際に言っていた感想を思い出しました。

 

「絵画を所狭しと並べていて、なんか違和感があったな」

 

最初このコメント聞いたとき、そうかなと思いましたが今考えると日本人としてそう感じてしまうのかなと思いました。(フィレンツェのピッティ宮殿はさらに所狭しと絵画が並べられていて壁を埋め尽くさんばかりでした)ただこう思うのは我々が「日本人である」がゆえなのではないかと思います。今回のタイトルである『集中できる環境を作る』と全く関係ないではないかと思われる方もいるかもしれません。ただ自分なりに最後にうまくつなげてみせようとするので、この試みが成功しているかどうか最後まで読んでいただき判断していただければ幸いです。

 

まず私がこのタイトルで書こうと思ったきっかけは慈照寺東求堂同仁斎の書院造を見たところから始まりました。この部屋は現在の和室の原型になったと言われている部屋でもあります。この部屋を今自分が住んでいる家の部屋やヨーロッパの昔の貴族の部屋と比較すると何にもないなと思いました。今みなさんも自分の机の上や部屋を見渡してみてください。なぜこんなにあるのかというほどものであふれているのではないでしょうか。自分自身、堂仁斎を見た後に自分の部屋を見渡して「なんでこんなにものに埋もれながら生活しているのか」や「昔の日本人はこんな殺風景な中でせいかつしていたのか」と思いました。

 

銀閣寺の東求堂は足利義政が建立させた東山文化を代表するものですが、彼の時代の文化は多分に禅の影響を受けているようです。そして禅の芸術的な成果として挙げられるものと言えば、茶道です。

 

茶道と言えば、抹茶を泡立てて、器を回しながら飲んでいるイメージが強いかもしれません。(子供の頃、訳もわからず湯飲みを回しながらお茶を飲んだことがある方も多いのではないでしょうか。自分はそうでした。)ただこの茶道には禅の精神がふんだんに盛り込まれています。お茶をたてる部屋はこの東求堂同仁斎のようにほぼ何もありません。お湯を沸かすための壺、あとは花と掛け軸です。

 

なぜこれほどまでに茶室は殺風景なのでしょうか?これは禅、さらにはその原型となった道教の考え方がベースとしてあるからです。茶室は禅の修行のための部屋を模していると言われています。原型となった部屋は修行のための部屋では、瞑想や議論に集中できるように必要最低限のもの以外は取り除かれていました。

 

また道教における重要な概念として「虚」という言葉があります。私の理解が正しければこれは「不完全性」や「空っぽ」という意味に近いかと思います。これはものがないという貧しさを表す概念ではありません。不完全あるいは空っぽであるからこそ、「なにものにもなれる可能性」、または「そこに自身の想像力を加えて完成させることができる」という非常にポジティブな意味を持っています。

 

茶室にはお茶をたてる道具、茶椀、掛け軸などがあります。この組み合わせを変えることで、室内を春の雰囲気を漂うようにもできますし、秋を感じることができる空間にもできます。また、最低限のもの以外何もないことでお茶のにおい、お湯の沸く音、掛け軸と花の組み合わせについて深く味わうとこができます。それはそういったことをする際の妨げになるものが存在しないゆえに、目の前のことに集中できるわけです。

 

現在の我々のほとんどが西洋スタイルの家に住み、多くのものに囲まれて生活をしているため、一昔前の日本の家には必ずあった和室はあえて簡素にしていたことはあまり実感できないかもそれません。(和室は居間であり、食事をする場であり、布団を敷いて寝る場であって様々な役割を果たせるようになっていました)

 

私の友人が冒頭でしたコメントの話に戻りますが、所狭しと芸術作品を並べてしまうことに少々違和感を感じてしまうのは、DNAのどこかに「不完全さ」や「空っぽ」といった禅の考え方が知らず知らずのうちに刷り込まれているからかもしれません。(ヨーロッパの美術館のいくつかは昔の貴族や王の邸宅であったものもありますし、ルーブルも昔は王の住む宮殿でした)

 

最近では物に囲まれた生活に慣れきってしまった我々日本人ですが、昔はもっと物が少なかったことを考えれば我々には本来こういった様々なものに囲まれた生活には慣れていないのかもしれません。しかしながら我々はものをたくさん持っていることが素晴らしいと無意識のうちに考えています。(それは物理的であれ、肩書のような目にみえないものであれ)ただものが多くなればなるほど、ものがあふれ目の前のことに集中することが難しくなります。またしがらみも多くなります。

 

かくいう私も以前は所有し、それらに囲まれていることで充足感を覚えている時期がありました。例えば、私の以前の机の上です。そこは2か月前まで本やスタンドといったもので埋め尽くされていました。ものを置いているとなんだか落ち着きますし、勉強している感も出ているように感じました。大学の教授の部屋(本がびっしりの棚が四方の壁を埋め尽くし、机の上も本で埋め尽くされている)を自分の机の上で再現しているような感じでしょうか。そこと同じようで満足しているようでもありました。

 

ただ結局机の上のスペースを圧迫することに加えて、本のタイトルが目に入ってきて目の前のことにちっとも集中できませんでした。そこでこれじゃいかんと思い机の上をまっさらにしました。そのおかげかはわかりませんが、仕事のパフォーマンスも上がった気がします。(あくまで個人的な感覚)それは家に帰ってきた後、家で行うインプットの質が上がったことによると自分で推測しています。それはなぜかというと目の前のことに集中する環境を作ることができているからではないかと思います。

 

まさに茶室と同じような精神が自分の机の上でも再現できています。机の上を空っぽにするということは、その空間をその都度自分の好きなようにアレンジできるということです。パソコンに集中したいときは、パソコンだけ置く。本を読みたいときは本だけ置く。そうすることで、その都度机の上がパソコン、本の空間だけになります。

 

前職の職場に、机の上がいつもまっさらな方がいました。パソコンにも何もメモを貼っていません。その方は仕事がものすごく早かったことをよく覚えています。もしかするとその方は、ここまで私が書いてきたことに関して感覚的に知っていたのかもしれません。

 

現在キャッシュレス化が進みお財布が小さくなったり、断捨離など物を少なくすることが流行(?)っています。もしかすると日本人の中に残っていた禅の精神が今の時代にも蘇ってきているのかもしれませんし、日本人には物に囲まれ過ぎた生活は合っていないと気付き始めたのかもしれません。

 

なかなか集中が続かない方は精神力がないからと自己嫌悪に陥ってはいけません。ただその場が集中できる環境になっていないだけかもしれません。そんな方はまず机の上のものを減らしてみてはいかがでしょうか?きっと思いがけない効果が人生に訪れると思います。

 

また一刻も早く海外旅行ができることを祈りながら、みなさんCiao Ciao.

 

 

〈参考文献〉
ドナルド・キーン著 金関寿夫 訳《日本人の美意識》1999年 中央公論新社
岡倉天心著 大久保喬樹 訳《新訳 茶の本》2005年 角川文庫
原研哉著 《日本のデザイン —美意識がつくる未来》 2011年 岩波書店