前提を疑う ーイタリア人は陽気なのか―

イタリア

前職とは異なる業界で働き始めて、ファッション雑誌というものを見る機会が増えました。それに伴い男性雑誌の◯◯◯Nのモデルとして、おそらく日本で一番知名度のあるイタリア人某G氏を見ることが多くなりました。

 

留学中のことですが、ある日本語学科のイタリア人の学生が日本人から「某G氏を知っているか?」とよく聞かれることがあったと言っていました。当然ですが日本で有名で、イタリア人にとっては「それは誰だ!?」となるそうです。

 

日本人にとってはこのイタリア人の学生に質問した日本人のように「イタリア人=G氏のイメージ」がものすごく強いように思われます。

 

ではイタリア人一般のイメージはどうでしょうか?おそらく多くの人がイタリア人は「明るい」「おしゃべり」などいくつかの単語が思い浮かぶと思います。その中の一つで多くの人が思い浮かぶイメージはおそらく「陽気」(イタリア語ではallegro(アッレーグロ)かと思います。(あの元ユヴェントスの監督もAllegri(アッレーグリ)で同じ綴りですね。日本でいうところの苗字が「陽気さん」となりますかね。)

 

なぜ多くの人がイタリアと聞くと陽気なイメージを思い浮かべるのでしょうか?実際のところイタリア人は本当に陽気なのでしょうか?

 

先日友人と話していたところ、多くの人は「イタリア人が陽気である」と思っているけれど、実際は違うのではという話になりました。その中で私が思ったことは「陽気」(allegro)という面は確かにある。ただその奥底には一種の悲しみも持ち合わせているのではないかということです。

 

先日、このことをイタリア人の友人に質問してみました。「イタリア人は陽気な人々と思われているが実際はどうなのか?」また「その根底には一種の悲しみがあると思うのだがどうなのか?」と。

 

彼女曰く

「Maruyamadagunmaの認識はあっていると思う。それはメランコリー(melanconia)なんだ。つまり理由はないがどこか悲しさを感じている状態。ここに今ないものを求めたり、目の前にある美しさを永続させることができないことを嘆く時になる感情の状態かな。

 

彼女の言っていたメランコリ―(イタリア語ではmelanconia メランコニア)は理由はわからないがどこか悲しさを感じている状態です。彼女が例として挙げてくれたのは美しい夕日です。(人にもよるかもしれませんが)、きれいな真っ赤に燃える夕日を見た時に美しいと感じると同時に、理由はわからないが一種の悲しさを感じることがある。これがメランコリーの状態だと言っていました。

 

日本人にとっては、桜をめでるときの気持ちがこの心理状態に似ているかもしれません。桜は美しい。ただ美しいと同時に、おそらくそのあとの散ってしまうことも同時に想像するので少し悲しい感情も見ている時に混じる。こんな状態です。こっちの例の方がわかりやすいかもしれません。

 

このようにイタリア人は陽気さの裏には、何かしらの悲しみあるいは不安が常にただよっているようです。この悲しさは表面上の陽気さによって覆い隠されており、ふとした瞬間に感じるもののようです。

 

イタリア人の友人の説明で「理由のわからない悲しみ」とありましたがその悲しみの正体はいったい何なのでしょうか?それはどこからやってくるのでしょうか?先ほどのイタリア人の友人が言っていたことの中に「今ないものを求める」といったような内容がありましたが(一人のイタリア人の意見をここまで広げていいのかという問題はありますが)、個人的にこのある意味で「不在」あるいは「懐古的」(ノスタルジー)というものがイタリア人の感情形成に大きな要素ではないかと思います。

 

イタリアの町を歩きますと過去のイタリアが世界の中心だった時代の遺構を多く見ることができます。ローマに行けばコロッセオ、フィレンツェに行けばルネサンス時の芸術品の数々、ヴェネツィアに行きますとカナレットなどの画家が描いた街並みをほぼ同じように見ることができます。私が訪れた他の都市、ラヴェンナ、ヴィチェンツァ、レッチェ、アルベロベッロなどのどの都市も古くの遺構が残され昔をしのぶよすがとなるような遺構にあふれています。

 

そのノスタルジーの雰囲気を一層強めているのが、イタリアの歴史にもあると思います。イタリアはローマ時代は巨大な帝国を築き、ルネサンス期は文化の中心地として栄え、軍事や文化の面で世界の最先端にいた時もありました。しかしその後は、地中海中心の経済圏から北大西洋中心の経済圏が移ったことや様々な周辺諸国によってイタリア半島が脅かされ支配されてきたことでヨーロッパの中心からいつしかヨーロッパの周辺諸国の1つになってしましました。

 

歴史の教科書を見ていても、ルネサンス期以降イタリアが教科書の中で大きく取り上げられることはあまりありません。これも個人的に感じたことですが、かなり悪い言い方をするとイタリアは過去の遺産にすがりついているような気がします。ただそれだけ素晴らしい文化が実際にあったためそれは致し方ないのかもしれません(私はイタリアの芸術文化が大好きであります!それらが悪いものであると言いたいのではありません!)

 

過去のことに目がいってしまったりするのは、現在の社会状況にポジティブなことをなかなか見つけることができないことの裏返しかもしれません。

 

イタリアの建国は比較的最近で1861年です。それまでは、イタリア半島に小さな国家が無数に存在していたため、正確に言うと今でいうところの「イタリア」は存在していませんでした。イタリア統一後為政者たちが苦労したことは、今までばらばらの国家の基に生きていた人々にどうやって「イタリア人である」という共通の意識を持たせるかでした。つまり国のアイデンティティをどうやって生み出すかでした。

 

現在でもイタリアを形容するときにその多様性を持ち出すことが多いですが、このことはもしかするとイタリアがまだこの国のアイデンティティを見つけることができていないことの証左かもしれません。このアイデンティティの「不在」がどこまでも伴っており過去の栄光を持ち出さざるを得ないために(取り戻すことのできない過去を取り戻そうとするために)、イタリア人の根底には常に一種の悲しみが漂っているのではないかと思います。

 

加えて現在のイタリアの状況があまりよくないことも陽気さの根底に悲しみがあることと関係しているのかもしれません。若者の失業率は日本とは比べ物になりませんし、留学中に知り合ったイタリア人の友人はイタリアの政治の悪さをよく嘆いていました。

 

ただイタリア人の不思議なところはここからです。失業率など高いから卒業後の仕事探しも結構焦っているのかなと思いきや「卒業後仕事どうするの?」と聞くと案外あっけらかんとしていて「卒業したら考えるよ」と結構のんきなことを言っていました。

 

しかし今の社会の状況に反して毎日の生活は実に楽しそうにしていて、飲みにいった時はよく話して、よく笑います。誰かの悪口を言って結束を強めるわけでもないですし、愚痴を言い合うということもほとんどなかったと思います。純粋にその瞬間仲間と楽しんでいる印象でした。

 

私が思うにイタリア人は日常生活に彩を与えることがうまい人たちではないかと思います。食、ファッション、サッカーなど普段の生活の質を高めてくれる産業が発達しています。それに加えて、家族とのつながり、友人とのつながりを大切にするところも日常生活に彩を加える要素として挙げられるかもしれません。

 

さらにさらにコミュニケーションの部分、特にあいさつに関しても、少しでも日常を楽しくする工夫があると思います。留学中、日本人の女性の友人が私のアパートに遊びに来た時、ルームメイトのイタリア人がその人にあいさつするときに ”  Ciao!  Bella! (チャオ!ベッラ!)” と言っているのを聞いてとても驚きました(日本語に訳すると「やあ、美人さん」となります!)日本語にするとおかしいことこのうえありませんが、イタリア語でさらりと言うのを聞くと何ともすてきでした。お世辞がうまいなと思いつつも思わず笑みがこぼれてしまいました (笑)

 

このように生活に彩を与えることへのこだわりは、先ほど書いたようなイタリアのアイデンティティの「不在」や現状の厳しさを自分の周りだけは少なくとも和らげようとする一種の生活の知恵なのかもしれません。ただそういった楽しそうな表向きな側面だけみてしまうと、「イタリア人=陽気だ、明るい性格」だと多くの人々が考えてしまうのかもしれません。

 

我々は生まれた瞬間から世間の波にのまれていきます。その間に常識といわれるものや世の中の当たり前を知らず知らずのうちに覚えていきます。特に小さいころはそういったことを無意識のうちに吸収してしまい、大人になった時に当たり前と思われていることに対しても疑問を持つということが難しくなってしまっています。教育は様々な人に新たなチャンスを与える素晴らしいものですが、教え方を誤ると教えたことがすべて正しいという誤った認識を持ってしまい、「なぜそうなるのか?」や「本当にそうなのか?」といった自分で実際に確かめたり考えてみたりすることをさせなくなる危険性も大いにあります。

 

昨今はインターネットで様々な真偽があやしい情報が数多く出回っていますが、それをうのみにしてしまうことも多々あります。現代人はここのところ考えることや集中することが苦手になってきているようです。TikTokは時間がかなり短く、インスタグラムは画像のインパクト、ツイッターは短い文字数。つまりインスタントなものが非常に多くなっています。その結果刹那的に終わることが多くなりますし、深く考えるという行為に至ることが難しくなってきています。

 

そういった時代だからこそ、ある情報に接したときに「本当にそうなのか」と疑うことが重要であると思います。そうすることで自ら考え、調べ、意見を構築し、考えを実行することができるようになります。そういった思考の過程を積み上げていくことで、自分自身が人生において成し遂げたいことが出てきた場合、その実現を助けてくれることは間違いないでしょう。

 

考えることは非常に体力が必要ですし、疲れることです。そのため、運動と同じように日々鍛錬を積み上げていかないと身につかないものですし、時間のかかることです。ただ現代社会では多くの人が考えない方向に行っています。最初はなかな成果が出ないかもしれませんが、これを1年2年続けた際には大きな自信と手ごたえを得ることができるでしょう。

 

最初の「イタリア人=陽気という印象」は我々が疑うことがほとんどなく無意識的に受け入れている例として挙げました。この例に限らず何となくのイメージで結論付けられていることは、世の中にあふれています。「学がないから、だめだ」「お金がないから、何もできない」「経験がないからこの仕事はできない」など、前提を疑わずに勝手に無限の可能性を狭めていないでしょうか。

 

だからこそ、そこに切り込んでいくことで、新たな発見や考える力など得られるものはかなり多いと思います。私自身、疑問に感じたことは考え抜くということを現在進行形で何とか身に着けようとしています。

 

どうかあなた自身が感じた違和感に対して正直になってください。そしてそれを突き詰めてみてください。そういったことが習慣化していくと、あなたが人生で達成したいことを考える際にもきっと力になってくれるはずです。

 

イタリアへまた旅行できる日が早く来ることを願いながら Ciao Ciao.