先日人生で初めてブレスレットを買ったMaruyama da Gunma です。
本日は最近読んだ本について、印象に残ったことを紹介したいと思います。
その本は前から気になっていましたが、結局買っていませんでした。
それはアドラーについての著作で有名な岸見一郎が書いた『人生は苦である、でも死んではいけない』(講談社現代新書)です。
すごく惹かれてはいましたが、ある時から自分は他人が得た人生論について書かれた本を読んだり、そういった動画を見ることを辞めようと思っていたため買っていませんでした。以前はこのようなジャンルの本をよく読んでいて、「すごいな。こんな人のようになりたいな」と思っていました。しかしいざ同じようにやろうとしても、その人と自分を比較し自分がダメな人間に思たり、無理やりその人の生き方、考え方を自分に合わせようと無理をしてしまっていました。
そうした失敗を何度か繰り返したのち、結局その人の人生から紡ぎ出した法則などはその人が経験したことからしか出てきているので、自分の人生に完全に当てはめることはできないという単純な事実を理解しました。
各々その信念に到るまでの出自、環境などその人と私では全く異なります。
当然参考になることもあるでしょうが、自分の場合、本を読み進める中でその人の人生と同じように送ってみたい、だから同じような行動、考え方をほぼ全て真似しようとしてしまいます。(映画を見た後にその中に出てきた人物の真似をしたくなってしまうのと一緒かと思います)
よって、結局他人の人生論について読むことは他人の時間を生き、自分の人生から目をそらしているだけだという思い、しばらくこの手の本を読まないようにしていました。
しかし、たまたま父親がこの本を図書館で借りてきていたので、少し拝借して読んでみました。
この中では世の中でよくあるような「こういった困難にあったけど、こうしたら成功しました(ここでいう成功とは世間一般が広く思っている名声を得るとか、たくさんお金を稼ぐとか、いい大学にはいるとかという意味での成功です)。だからみなさんも私みたいにこう考え行動しましょう」というものではありません。
この本では世間一般でいう成功した事例は何も書かれていません。彼自身が人生の中で常に苦しみながら絞り出した「人生こうでもよくないか」ということが書かれています。
決してその成功をひけらかすものではないですし、上から目線で「こうしろ」ということも言っていません。
自分の人生を振り替えつつ、そこで感じたこと、古今東西の哲学者や日本の現状などと関連づけながら話が進められていきます。
今回はその中でも印象に残っていることを3つ紹介したいと思います。
1つ目はこの本の中で紹介されていた三木清『人生論ノート』だったかと思いますが、その中で出てきた人生を貝拾いに喩えた抜粋を挙げていた箇所。
2つ目は相模原の障害者施設で起きた殺人事件についての筆者の分析。
そして3つ目はミルク壺に落ちたカエルのたとえ話です。
まず1つ目から。
三木は生きることを貝拾いに例えています。砂浜という社会の中で、人生という籠を持ちながら、貝という人生において各々が大切だと思うものを集めるところが、彼によると生きていることが貝拾いのようだということです。そして貝拾いをしているうちに、突然津波という名の死が襲ってきて貝拾いという人生が終わると言っています。
そのたとえについて読んだときは、「なるほどな」とおもいました。(人生で潮干狩りは一回しかやったことはありませんが…)
我々は日々自身が大事だと思うものに時間をかけて、それを獲得しようとしています。人によって貝という名の人生における大切なものは異なります。
お金、いい会社、いい大学、肩書き、成功、友人、家族、自由な時間、趣味などです。
死ぬまでせっせと貝を無心で集める人もいるとは思いますが、多くの人が砂浜にいる間、籠の中を見る機会があると思います。
やっぱりこれは大事なものだったなと思えるものもあるでしょうが、大概の場合は大事に思えていた籠の中の貝が全く価値のあるものに感じなくなっていることのほうが多いのではないでしょうか。
病気になって健康が一番の財産だと気づく方が多いこともその裏付けています。
そこで人々は絶望しますが、また貝を集め始めるよりほかはありません。
なぜこういったことがよく起きてしまうのか。それは世の中、世間が重視する価値観に囚われ、それらを満たせば「必ず」幸せになれると思っている方が多い故ではないでしょうか。
自分の人生ではなく他人の期待を満たそうとすると、世の中的に「いい」とされる貝に目がいきがちになります。それは学校の教育やメディアなどを通して小さいころから無意識的にそういった風潮に流されてしまっているためでしょう。けれど、それらを必死に求めようとします。
その人はおそらく自分が世間の価値観に合わせていくことを内心苦しいと感じていると思います。にもかかわらず、世の中大勢を占める価値観にたなびいてしまうのは自分の決定に自信がもてない、「これで大丈夫かな」という不安を抱えてしまうからだと思います。大勢の方に属しておけば安心できますし、その中で自分はこういった(世間が一般的に良しとする)価値観をもっているととりあえず自信を持っていうことができます。
しかしそういったものはすべて人間が作り出した幻想です。
当然ですが、すべての人には当てはまりません。
社会の中にはいろいろな貝が落ちていますが、世間でいいと思われている「価値がある」とされるものに惑わされずに自分が「これだ」と思うものを集めて欲しいです。それがお金であれ名声であれ、「自分で」決めたということが重要です。自分もそうでありたいと改めて感じました。
2つ目は相模原の障害者施設の殺人事件に関する筆者の考えについてです。
こういった事件が起きると多くの人はその人が異常であったという話で終わらせてしまうが、この事件を起こすに至った思想を分析する必要があると筆者は指摘しています。
彼が殺人に及んだ動機は「障害者は何も生産しない」ということからでした。
ここで被告が重きを置いていることは「生産性」です。つまり被告にとっては生産性が高い人間ほど「価値があり」、生産性が低い人間ほど「価値がない」ということです。
これを聞いた時に内心どきっとした方もいるのではないでしょうか。この考え方は、この資本主義社会で生きている人間であれば誰しも考えたことがある判断基準ではないでしょうか。
会社では同じ時間でもその中で多くの量をこなした人がいわゆる「優秀な人」、「生産性の高い人」と言われます。確かに企業活動に関してであれば、生産性を軸としてもある程度はいいでしょう。
しかしそれを世の中のあらゆることに適用することは間違っています。
ファッションの例で一つ。女性はヒールの高い靴を履きます。その靴は生産性とはかけ離れたものです。爪先にいくほど靴はとんがり足の指は締め付けられます。加えて、ヒールが高いほど歩きづらく転んでけがをする可能性さえあります。走ることは当然、長い時間履いていることもできません。
女性のヒールに関して、生産性という物差しを当てはめた時に全くその基準から外れていることは明らかです。しかし、そういった否定的な側面を考慮に入れても「綺麗に見せたい」という思いが強いので女性はヒールを履くのではないかと思います。
ヒールのたとえは少しわかりづらかったでしょうか。書いていて自分でも内心ちょっと違かなと思いましたし、先ほどの例はただ自分が書きたかっただけなのでもう少しよい例を。
それは赤ちゃんです。
「生産性」という基準で考えれば、彼らの存在はどうでしょうか。
彼らは一人では何もできませんし、親の時間を何かあるごとに奪っていると言えるでしょう。
しかし、当然のことながら赤ちゃんに価値がないと思っている人はいません。
彼らは「存在する」ということだけで十分に価値があるのです。 「生きている」ということだけで、周りの人々に喜びを与えています。
これは赤ちゃんの場合に限った話ではなく、筆者も言っているようにあらゆる人間に当てはまることであると思います。 それがいつの間にか、学校では成績で、働き始めると生産性でその人の価値があたかも決まってしまうようにな印象を無意識のうちに刷り込まれてしまっています。
そしてそこに当てはまらない自分はダメな人間であると思い込むようになってしまっています。 そもそも「生産性」という基準は人間が生み出したもので、今この時代だからこそ一定の効果を持つ指標です。
原始時代であればもっと違った基準があったろうし、そういった基準自体が日々生きることに必死でなかったかもしれません。
つまり、この「生産性」という指標は現在という特殊な状況のみに当てはまることです。
人は犯罪者という性質を持って生まれてくるわけではありません。 成長の過程で、社会の中で様々な思想に触れることで形成されていきます。 それは人生を豊かにしてくれるものもあれば、この事件のように非常に極端な思想に至ることさえあります。
被告がどのような人生を歩んできたかはわかりませんが、そういった極端な思想が生まれる土壌が日本あるいは世界に存在していることは間違いのない事実です。 一歩違えばあらゆる人が彼のような思想に至る危険にあるということです。
こういった悲惨な事件があるたびに感情論で「ひどい事件だ。犯人は社会的な制裁を受けるべきだ」で終わらせてはいけません。 そういう思想や行動に至らせた日本社会にも責任があります。 もしかすると小さい頃や中高生くらいの時に「人は生きているだけで価値がある」という教えを誰からか教わっていたり、周囲に彼のことを理解してくれる人がいれば少しは違ったのかもしれません。
自分もあまり自己肯定感の強い人間ではなく、最初の仕事を辞めた後はしきりに「俺ダメな奴だな」と思っていました。 しかしながら、「あの時Maruyama da Gunmaから〇〇といわれて、いろいろ考えなおした結果転職したんだ」とか、いつもいろいろなアドバイスばかりもらっていて、自分は何を返せているだろうかと思っていた方から「自分も刺激をもらっています」というラインのメッセージをいただいたりしました。
微力ながらも他の方の人生に影響を与えることができていることに(いい影響であってほしいですが)感動しました。 こんな自分でも生きててよかったなと久々に感じることができた瞬間でありました。
この本にも書いてありましたが、人は生きていれば他の人と関わらずには生きることはできません。 だから何かしら、他人の人生に影響を誰しもが与えていると思います。 ただ面とむかって「おまえのおかげで」と言ってくださる方もいれば、恥ずかしくて言わないだけの方もいるかと思います。生きていれば必ず何かしらの影響は間違いなく他人に与えています。
しかし、結局重要なことは「あなたが生きている」その事実だけです。 生きていなければそういった可能性も完全に閉ざされてしまいます。
印象に残ったことの3つ目はミルク壺の中に落ちたカエルのたとえ話です。今回最も響いたものです。 もともとの話では2匹のカエルが登場してきますが、筆者はそこに3匹目を加えています。
話はこうです。
ある時3匹のカエルがミルク壺のふちで遊んでいましたが、中に落ちてしましました。
1匹目のカエルは最初はもがいていましたが、しばらくして「もう無理だ」とあきらめ何もしませんでした。 2匹目のカエルは「誰かがやってきて助けてくれること」に期待して自分では何もしませんでした。 3匹目のカエルはどうやって外に出られるかはわかりませんでしたが、牛乳の中を必死に泳いでいました。
1匹目のカエルはそのまま出られず、2匹目も結局は誰も助けに来ずで溺れ死んでしましました。 3匹目のカエルだけが外に出ることができました。
何故出ることができたかと言いますと必死にもがいているうちに、牛乳がバターに変わりそれを足場にして外に出ることができたからです。
これまでの自分をふりかえった時に2匹目のカエルにものすごく当てはまるなと思いました。 4月5月とコロナの関係で、仕事が休みとなったためそれまでの人生を振り返る時間が改めてありました。 常に誰かが何かが偶然に起きて、自分をこの困難な状況から一瞬で救い出してくれるのではないだろうかと考えたり、何か天から啓示が下りてきて自分の進む道が明確になるといったような少々宗教染みたことを期待していました。
自分自身で何かしたかというとこれといってしていたことは特になかったと思います。 ただ自分の置かれた状況を悲観し、それまでの自分の行いや決断を悔いるばかりでした。まさしく2匹目のカエルと同じでした。
ミルク壺に落ちてしまったカエルにとって、「その中に落ちた」という事実はもう変えることはできません。そのため次に考えるべきはどうしたらそこから出ることができるか必死に考え行動することです。 自分もこのカエルのように、今のような状況に落ちた自分自身を受け入れることができず溺れかけていました。 何をすればいいか全くわかりませんでしたし、始めたとしてもこれでいいのか、もっといい方法があるのではないかと全く目の前のことに集中ができていませんでした。
ただ最近になってようやくわからないと言っているだけでなく、3匹目のカエルのようにとにかく1つ1つ試してみてもがいてみて、少しずつ何をすればよいかがわかっていくしかないのだという気がしました。 ロックダウン解除後ここ1か月特に仕事の際に少しもがいてみた結果何となく道筋が見えてきたような気がします。あとはそれを辛抱強くやり続けられるかにかかっていると思います。
この本の 筆者は最後に人間はみなこのカエルのようにミルク壺の中に落ちたカエルのような存在だと言っています。 我々に与えられているのは「この世に生まれてきた」ということだけです。
日本には今何をしたいかわからないという方が多いです。それは自分自身のことについて考えるという人として死ぬまで一生考えていかなければわからない重要な問題を放棄してしまっているからです。身の回りを見るとワイドショーなどで不倫のことが盛んに報道されたり、他人の悪口で盛り上がって変な仲間意識を強めたりと関心が自分に向いていないことからも当然の帰結ではないかと思います。
他人に関心を向けておけば人生における最大の最難関の問題を考えなくてすみます。弱い自分と対面する必要もなくなります。それに世の中的には「悪い」とされていることを批判したり、大勢を占める考え方に身を浴しておけば自分自身も大きくなったように錯覚できます。 だから自分の時間を生きていない人が多く何がしたいのか見つからない方が多いのではないでしょうか。
自分について考えると悪いところばかりに目がいき、つくづく自分という人間が嫌になります。今の自分を受け入れることができたとしても、こうなりたいという思いはあるけど、どうしたらいいかわからない、理想と現実に差がありすぎてそこに到達できるかわからないといった不安が生まれまたくじけそうになります。 けれども、必死にもがいてみるよりありません。
かく言う私も、偉そうに書いてきましたが、自分はまだ何をしたいかはっきりと明確な答えを持っていません。 ただ今はもがいて何とか「こうかな」という道筋を見つけようとしています。これしかないと最近思いました。
みなさんもどうか自分の今の状況を悲観せず、誰かが何とかしてくれると思わずもう少しもがいてみてください。 そうすると不思議と視界が開けそかなと感覚的ではありますが気づくと思います。
気になった方はぜひ岸見さんの本を読んでみてください。
それではみなさんの人生に幸あれ!