雑談をする

情報は情けに報いると書く
人生について

先日会社の人と話していた時に、方言の話になりました。

というのもお店の中でいろいろと物が散らかっていた時に、

「ごったくしてるね」

と同僚の一人が言ったからです。

 

初めは何のことやらと思っていたら、

「これは長野の方言で散らかってるといった意味で、他にもごったくばっか集めてというように他の人にとってはいらない物、価値のない物に関してもこのごったくという言葉を使うんだ」

 

と説明してもらいました。

 

(長野県には「ずく」という方言がありますが、これは長野人に言わせると翻訳不可能なようです。ちなみに私は群馬人です)

 

新しい方言を知ることができて少しばかり、よかったなと思うと同時に日頃の何気ない雑談は重要だなと思いました。

 

 

いままで、私は雑談は無駄なもので、なぜするのだろうかと思っていました。

(今はそう思っていないのでご安心ください)

芸能人のゴシップやら近所の〇〇がなどともっと自分のことに時間を使った方がいいのではないかと思っていました。

 

そのため、これまで積極的に会話の輪の中に入ることはなかったですし、声をかけてもらって会話に加わるということが多かったです。

 

しかし、最近になってようやく雑談の効用がわかってきたような気がします。

私は仕事柄、初対面の人と話す機会が毎日あります。

その時に何と言っても重要になるのが「雑談」。

この人だったらと話を聞いてもらえると心を開いてもらうために、また自分にとっては相手がどういった人なのかを知るために効果的です。

 

仕事の話ばかりで、堅苦しくなってしまうときになごませてくれるのも雑談であります。

 

初めての人にあった場合、まず相手がどのような人なのかを知らなければいけません。

目の前にいる人に関して全く情報をもちえていなければ、人間だれしも不安を抱くものです。

初めて会った人でも、誰かの友人で事前にその人の情報を少し知っているのと、全く縁のなかった人では前者の方が比較的話しやすいかと思います。

 

自分のこれまでをふりかえると、あらゆる場面で言葉少ななことが多かったですし、話しかけられても一言二言で終わってしまうことが多かったです。

話すことが苦手ということもありましたが、前述のような考えだったため雑談を積極的にしようとはしませんでした。

 

今思うに、相手からすると「この人は自分から話さないし、こちらから話しかけてもあまり話さない。よくわからないやつだ。少し距離を置こう」

 

というようになっていたと思います。

 

この近づいても大丈夫かどうかを測るのが雑談だと思います。

 

イタリア人は日常生活でとてもよく話します。

私はしゃべらない方というイタリア人でも日本人からみるとかなり良くしゃべります。

 

会話そのものが好きだということもあると思いますが、イタリアの歴史を振り返ってみると「話したがり」というよりも「話さなければならない」のではないかと思いました。

 

(王国としての)イタリアの建国は1861年です。

 

日本と比較するとかなり遅いことがわかります。

それまでイタリアはフランス、スペイン、オーストリアなど周辺各国に蹂躙されていました。

 

支配者が時代によってころころ変わるため、そこに住んでいた人々にとってはたまったものではありません。

そしてそのたびに新しい人が外部から来ていたのではないかと思います。

 

支配者が頻繁に変わっている状況では、その支配階層を信頼できないためイタリア人たちは自分たちでまとまるしかありません。

 

まとまる際に重要なことは誰が見方で誰が敵か見分けることです。

その手段となるのは「雑談(話すこと)」です。

イタリアに限らず、ヨーロッパ各国では陸続きになっているのでそれだけ部外者に接触する機会も多かったはずです。

だから自分にとって危険な人なのかそうでないのか見分けることは命にかかわる重要な問題であったと思われます。

 

だからこそイタリア人含めヨーロッパの人は良く話すのではないかと思います。

 

現代社会でも、人が密集して暮らしています。特に東京などでの大都市ではそれが顕著です。

昔のヨーロッパとは状況が異なりますが、ある意味で自分の知らない未知の人と日々となり合わせで生きている状況は似たところがあります。

 

しかし現代の日本人がヨーロッパ人と異なるのは話すことによって、相手を知ろうとするのではなく全く無視をすることでお互いの領域を犯さないようにしていると思います。

(アパートに住んでいてもお隣さんのことをほぼ知らないことからも納得いただけるかと思います)

 

ただそんな日本でも生活している以上なんらかの場で新しい人に会う機会はどうしてもあります。

その時にあまり雑談ができなければ、「この人はよくわからない人だ」と思われ自然と遠ざけられてしまうでしょう。

 

そうすると孤立してしまい、ある意味で生死にかかわる問題となります。

 

だから雑談の中で、お互いの人となりを知ることで「この人は安全な人だ」と思うことまた思われることが必要ではないかと思います。

そしてそこから関係性の構築が始まります。

 

今の世の中を生きていく上で自分には雑談が欠けていたのかといまさらながらに気が付き、最近は少しずつ雑談を積み重ねるようになってきました。

 

だからこそ、最初の方言のことも知ることができたわけです。

 

雑談ができると情報が入ってきます。

 

情報は「情けに報いる」。

現在はインターネットから得ることができる情報も多いですが、やはり情報という字のごとく人から教えてもらうものの方が自分にとって有益なことは多いはずです。

 

雑談は最近意識して始めたばかりですが、どこに行っても大切なことであるので日々磨いていきたいと思います。

 

それではCiao Ciao.