趣味としての語学

降りたったバス停からの景色
イタリア語

イタリア語を初めてかれこれ7年。

 

高校生の時はまさかイタリア語を選ぶことはもちろんですが、このように長くかかわるとは思っていませんでした。

 

最初に少し長いですが、私のイタリア語遍歴を。

 

イタリア語に出会ったのは大学時代。

大学生の間に、英語の他にもう一つは言語を習得したいという思いで、いくつか言語の授業をとっていました。

その中にイタリア語も含まれていました。

当時の私は留学もできたらいいなとおぼろげながら考えており、留学先はフランスかなと勝手にイメージしていました。

 

ただイタリア語を始める前、すでにフランス語の授業も取っていましたが、フランス語は見たまま発音できないしい、発音も難しいと感じていました。

 

その点イタリア語は、発音は大体見たままであるし、ローマ字読みでもあるのでとても楽だなと感じました。(あくまで個人の見解です)

 

そのため、イタリア語はフランス語より少しばたり簡単と感じていたことに加え楽しかったですが、特に力を入れて勉強をしてはいませんでした。

 

しかしそんなこんなで大学3年生になりました。

フランス語の授業が終わり、語学の授業はイタリア語だけになりました。

 

大学2年時西洋美術史の研究室に入っていた私は、卒論ではあまりスポットライトが当たることの少ないイギリス美術にしようかと考えていました。

 

そのため、イギリスに留学もいいなと考えていましたが、授業料が高いと聞いて断念。

 

また研究室にイギリス美術に関する資料もあまりなかったので、もう一つの興味があったヴェネツィアのルネサンスに変えようかなと考えていました。

 

その矢先、ある授業中、先生が、授業で取り組む論文を決めるため、それぞれの学生に興味のある分野を聴くことがありました。

 

その時、私は「ヴェネツィアの美術に興味があります」と答えました。

 

その時に思いがけなく先生が「今年からヴェネツィアの大学と提携したから行くといいんじゃないか」とおっしゃってくださいました。

 

予想外の言葉に心のなかで「なんと!」と思いました。

 

というのも、その少し前にようやく留学について真剣に考え始めたころ、大学間の交換留学の説明会に行き、そこで盛大にやらかしていた事実を知ったからです。

 

下調べが不十分だった当時の私は、言語レベルの要件があることを全く知りませんでした。

当然ですが私はその条件を満たしていませんでした。

 

私は「やってしまった…。あと一年待たなければ… 」と気を落としていた時でした。

 

そのようなときに先生から「留学行けるよ」という助け舟を出していただいたのは、とてもついていたと思います。ありがたい限りです。

 

その時点で私が取り組む言語は決まりました。

 

イタリア語です。

 

イタリア語がフランス語よりも最初に簡単と感じたこと、ヴェネツィアの美術に興味をもったこと、ヴェネツィアの大学と交換留学の提携が結ばれたこと。この3つの偶然が重なりイタリア語に本格的に勉強するようになりました。

 

そして、留学前、留学中も大学時代の中でイタリア語は一番勉強したと思います。

大学生活の中で少しは自分のものになったと感じることのできるものでした。

 

そのため、卒業後の進路もイタリア語を仕事でつかえるようにと考えました。

 

そして新卒で、将来イタリアで働くことができる可能性のある会社に入りました。

 

入社後も、今後使うことになる(であろう)イタリア語を勉強していました。

九段下にあるイタリア文化会館の語学のコースに通ったりもしました。

 

しかしながら、2年前にわけあって、新卒で入社した会社を辞めました。

 

 今はイタリア語を将来使うこともない仕事に従事しています。

 

自分の中で初めてイタリア語が、「未来」のために学習するものでなくなった瞬間でした。

 

大学時代は、留学の為。仕事をしていた時はイタリアで働くため。

 

そういった将来への目的が無くなってしまいましたが、イタリア語学習が(ある意味で)趣味となった今も細々とイタリア語に取り組んでいます。

 

なぜなのか。

 

その理由はしばらくの間全くわかりませんでしたが、最近少しずつ分かってきたような気がします。

 

後半では、そのことについて少し書いていきたいと思います。

 

私達の時代は、将来のために今を犠牲にするような生き方をしています。

 

目標を立て、それを達成するために逆算をし今現在を犠牲にして目標へと近づこうとします。

 

現在を担保に、将来より大きな利益を得ようとします。

 

そういった世の中で私はイタリア語を担保にし、将来イタリアで働くというより大きな利益のために、イタリア語を勉強していました。

 

それはある種のやらなければならない作業のようなもので、イタリア語そのものを味わうという側面はほとんどなかったように感じます。

 

また、イタリア語の練習を手伝ってくれるイタリア人の方々も、イタリア語を話す人というだけで「その人がどのような人なのか」「何に対して興味があるのか」などほとんど考えていませんでした。(その人自体に興味が向いておらず、イタリア人というところが私にとって重要であったと思います。)

 

イタリア語も、イタリア人の方も私の中では単なる手段でしかなかったと思います。

 

今考えるととても失礼なことをしていたとひどく反省しています。

 

しかしながら、現在イタリア語を将来使えたらなと思ってはいますが、まったく関係するような仕事についていません。

 

今は初めてイタリア語が「手段」でなくなりました。

 

それでも続けているのは、純粋に語学の学習を楽しいと感じているからかもしれません。

 

具体的に何が楽しいかというと、それはおそらく「イタリア語を使って、イタリア人と話せること」であると思います。

 

私はこの単純な素晴らしい事実を忘れてしまっているようでした。

 

日本では中学校から(今は小学校からでしょうか)英語を勉強し始めますが、どうしても「勉強するべきもの」「受験に必要なもの」といった「手段」の方に主眼が置かれているように感じています。

 

これも将来のために今現在を担保に入れる、現代社会の産んでしまった現象かもしれません。

 

純粋に言語を学習する喜びがないように感じます。

 

日本人はブランド好きと言われますが、それがどこかの有名ブランドのロゴが入っているから買っているのであって、そのもの自体がよいから買っているようには見えません。

 

ブランドのものは大概の人にとって、その人の社会的なステータスを喧伝するための手段となっています。

 

おしゃれであることの保証、年収などなど持ち物の方が本人よりも目立っていることのほうが多く感じます。

 

それはブランドのものがとりわけ金銭的な能力を表現する「手段」になってしまっており、純粋にそのもの自体を味わう精神の欠如ゆえであると思います。

 

今の私のイタリア語との関り方は、「将来のためにやらなければいけないもの」から「イタリア人と話すことを楽しむ」と言う「未来」から「今」へシフトしたように思います。(完全にシフトではなく、より今への比率が高まっている状態です)

そのため、私の関心がイタリア語とイタリア人に向かっているという点で今までよりもイタリアとの関わり方がピュアな関係性になったと思います。

 

これはある意味で幸せかもしれません。

 

何か理由がないといけないと考えている現在で、純粋にそのものを楽しめる機会が減ってしまっている世の中ですから。

 

それではみなさんCiao Ciao.