この歳になっても母親にお弁当を作ってもらっています。
弁当箱の半分は白米で残りの半分におかずが入っています。
白米の上には大体、昆布や残りの半分に入りきらなかったおかずがのせてあります。
ただ先日弁当箱を開けた時に、おかずが入ってる半分は良かったのですが、もう半分に違和感を覚えました。
白米の上に何ものっておらず、どことなく寂しく感じました。
何が足りないかはすぐにわかりました。
そう、梅干しです。
この赤い食べ物は(私にとっては)美味しいだけでなく、見栄えの点でも非常にいい仕事をしているなと思いました。
日の丸弁当などと聞くと何となくひもじい響きが漂いますが、梅干しがあることによって白と赤のコントラストでお互いが引き立ち、地味過ぎず主張しすぎず非常に素晴らしいバランスであります。
そう思うと日本の国旗もなかなか考えられたデザインであるなと改めて思いました。
話はがらりとかわりますが、先日初めてダメージデニムを購入しました。
昔はなぜ、わざわざ穴を開けて、ぼろく見せつけるのか。
そのような不良品まがいのものわざわざ進んで購入するのか理解できませんでした。
まさかこの日が来るとは思っても見ませんでした。
そのような悪い印象しか持っていなかったダメージデニムでしたが、購入に至りました。
その日は、そもそもジャケットを購入しようかと思いお店に入りました。
なかなかいいものが見つかりませんでしたが、店員の方が持ってきてくれたものがよかったので、あとはどう組み合わせるのか、とりわけどのようなズボンに合わせればいいのかお店にあるものも借りながら考えていました。
その中でたまたま履いたのが白のダメージデニム。
他に白のズボンがないということだったので、仕方なくそれを借りてはいていました。
ダメージの部分は気にせず色とシルエットだけ気にして、購入を考えていたジャケットと合うかどうかをチェックしました。
そしてその時はジャケットのみ購入しました。
家に帰り、手持ちの無地の白のデニムと合わせてみました。
そうすると何か物足りなく、組合せがしっくりときませんでした。
なぜかと考えてみると、あのダメージのせいでした。
後日改めて、そのお店に行きダメージデニムを合わせてみるとしっくりとはまりました。
ダメージは、ちょうど白米の上の梅干し。
それがないと味気なく、やりすぎるとバランスが崩れてしまう。
ジーンズに入っているダメージは、ちょうどよいアクセントになっているのだとその日に初めてわかりました。
私が洋服において楽しいと思えるところは、組み合わせを完成させることです。
洋服は、毎日着るものであるため着心地がいい、水をはじくなどの機能面を求められがちです。
特に、今の時期湿気が多くじめじめとした暑さが厳しい日本ではなおさらです。
そうすると着心地を求めて(機能面)、みための点がどうしても損なわれてしまいます。
つまり、洋服の芸術的な点が下がってしまいます。
いわゆるパリコレなどで見ることができるよくわからない服装のように、洋服には芸術作品という要素もあります。
私にとって、洋服の組み合わせを考えることは(着回しを考えることも重要ですが)、画家が主題を決め、どのようなモチーフを描きこみかつ配置し画面を構築するかということと重なります。
そういった中で完璧なバランスを見つける、これしかないというものを見つけること、これが何にもまして素晴らしい瞬間です。
留学中にルームメイトであったイタリア人の友人がモンドリアンの絵画について、
「あの作品(《赤・青・黄のコンポジション》チューリッヒ美術館)はどこかいじってしまうと全体が崩れてしまう完璧な構図だ」と言っていました。
モンドリアンもおそらく(私の妄想ですが)、あの黒の線、赤・青・黄色の完璧な比率を見つけた時は、私が洋服のこれしかないという組み合わせを発見したときと同じであったと思います。
そのモンドリアンの絵画の黒の線の太さを変える、赤色の面積を少し増やすとおそらくしっくりこなくなると思います。
服装のバランスが崩れる一歩手前でのギリギリをせめる緊張感のある服装を普段からしたいものです。
「ダメージジーンズは日の丸弁当の梅干しである」よりも、西洋美術史を学んだ者として「ダメージジーンズはモンドリアンの《赤・青・黄のコンポジション》の黄色のような存在である」と言った方がかっこいいかもしれません。
梅干しからモンドリアンに飛んでしまいましたが、洋服は絵を描くことが苦手な私にとって身体を使って作品を作ることができるため、自分自身を「芸術家」といってもいいのかもしれません。
気分いいですね。
おあとがよろしいようなのでここで締めます。
それではみなさんCiao Ciao.