私は3年前仕事の関係で東京に住んでいました。
その時によく行っていた場所が上野でした。
私は大学時代西洋美術史を専攻していました。
そのため、年に何度か美術館を訪れるために上野に来ていました。
仙台からあるいは群馬から電車で最初に到着する場所が上野でした。
東京の街の中でも旧知の仲のような親しみを覚えている場所でした。
私の職場は中野でしたが、毎日丸ノ内線で茗荷谷駅から新中野まで通っていました。中野は働き始めるまで、訪れたことのない場所でした。
茗荷谷、後楽園、神保町、神楽坂、飯田橋など、東京で仕事を始めて以降好きになった場所はありましたが、私にとって中野は最後までなかなかなじまない土地でした(途中で仕事を辞めたのでそのような記憶も作用しているのかもしれません。私にとって中野がなじまなかっただけで、よくない場所だと言いたいのではありません。)
そのため、中野での仕事と町の雰囲気に疲れた時には、自ずと上野に足が向いていました。そして上野に到着すると何か守られているようで、とてもほっとした気持ちになりました。
そして決まって、国立西洋美術館に行きました。
金曜日は、夜8時まで開館していましたので、1週間分の仕事のもやもやを抱えながら訪れていました。
そして個人的にお気に入のカルロ・ドルチェの聖母の絵画の前でぼーっとしていました。聖母のまとう深い青のマントに心が浄化されていくようでした。
さて美術館では、当然そこに展示されている作品が主役ではありますが、私は美術館のもつ雰囲気が小さいころから好きでした。
もちろん異国を訪れるような一種の非日常的な空間も好きです、
ただ当時のことを折りに触れて思い出してみると、美術館が生み出す場が好きなのではないかと思います。
当時はなぜ美術館という場に魅了されるのかわかりませんでしたが、少しずつその理由が分かってきたため、今回はなぜそう感じるのか書いていきたいと思います。
私が思うに3つの理由があります。
それは「他人との距離感」「余計なものがない」「静かさ」という要素です。
一つ目は他人との距離感です。
前職では月曜日から金曜日まで同じオフィスで、同じ人と毎日8時間以上過ごしていました。言うまでもありませんがそうしていると、いろいろとすったもんだがあります。
すったもんだが起きてしまった瞬間には一人になりたくてもできないため、常に人に囲まれもやもやしながら一日中パソコンの前に座り続けていなければなりません。
そして、それに1週間耐え抜き解放される金曜日の夜。町もどこか浮かれたような雰囲気になります。華金というやつです。
金曜日、町の華やぎを横目に一人で家に帰るのはどこか寂しさを覚え、町の雰囲気によってそれが一層増します。しかし、どうしてもオフィスでさんざん人に囲まれていたので一人にはなりたい。
人は、当然一人では生きることはできませんので、社会で生きている以上、人と関わらなければいけません。しかし、同時に一人になる時間も欲しくなります。
私にとって、一人になりたいが一人ではないというわがままな希望をかなえてくれる場所が美術館であります。
美術館では基本的に話しかけられることはないですし、周りは見ず知らずの人たちの為自分一人の世界を侵されることはありません。仕事中だとある案件について、考えている最中に話しかけられ思考が中断してしまうようなことがあります。
ただその一方で美術館では完全に1人の空間でもありません。常に他の人が周りにいます。そのため、もちろん物理的に1人の寂しさは解消されます。それにとどまらず、精神的な寂しさも和らぎます。
美術館を訪れる人はおそらく、多くが芸術を愛する人たちであります。その点で緩やかな趣味の一致を他の人にも感じることができます。そのため、全くの他人ではあるが少しばかり自分との共通項を持っている人々として異質すぎる存在ではありません。
基本的に1人だが、周りの人と緩やかにつながっている。これが私が美術館を訪れる一つ目の理由です。
二つ目は「(私にとって)余計なものがない」です。
私の東京の印象は町にもよりますが、全体的には「ごちゃごちゃ」しているです。
ビル、人、看板などなどものであふれています。
冒頭私は丸ノ内線で茗荷谷駅から新中野まで通っていたと書きましたが、茗荷谷駅周辺を住まいに選んだのはできるだけ私のイメージにある「ごちゃごちゃ」した東京を避けたかったからです。
パチンコ屋やチェーンの居酒屋のどすのきいた看板は目が疲れます。仕事で疲れていると余計に疲れさせます。東京はものであふれており、人の目を常に占領してこようとします。欲望をできるだけ掻き立てるために巧妙な手段を用いてきます。
また電車の中では、週刊誌の中刷りや新刊本の広告、ドアに挟まれないようにという注意書きの数々。隙間恐怖症ともいえるくらい、少しでも空間があれば何かで埋めてこようとします。
茶室など余計なものをできるだけ排除してきた空間を生み出した同じ日本とは思えません。もしかすると逆に言えば、様々な要素を排除し、いかようにもできる空間を生み出したからこそ、今の広告などの氾濫につながってしまったのかもしれません。
少しそれましたが、日本では東京にいると自分で見るものを選択することが非常に難しいです。
その中で美術館は、主な目的な一つが「芸術作品の鑑賞の場を提供すること」ですから鑑賞の妨げになるようなものはできるだけ設置されていません。
そのため、かつてのヨーロッパの貴族の邸宅を美術館にした場合は除きますが、多くの日本の美術館はまっさらな空間です。そして「私自身が選択したもの」を見ることができます。
そのため、東京に住み始める時に自分が求めていた「ごちゃごちゃ」していないという理由で選んだ町が茗荷谷でしたがそれと同様、それよりもさらに純度の高い状態が美術館では実現されています。
3つ目としてあげた「静かさ」はこの「余計なものがない」と少しかぶるかもしれません。
「静かさ」とはつまり音がないということです。騒音がないといってもいいでしょう。
東京だけでなく、日本各地そうだと思いますが、音があふれています。
視覚的な広告同様、BGMや注意の呼びかけ、トラックの「左に曲がります。ご注意ください」まで様々な音が都市には溢れかえっています。
特に注意の呼びかけはどうしてこのような幼稚なものまでと思わず首をかしげてしまうようなものが多くあります。
常に我々の耳は侵されてしまっているため、家で一人でいるとどこか物足りないと感じ、テレビやYouTubeなどを目的もなしにつけてしまいます。
私自身も今でもそれをなかなかやめることができません。
そうすると何か悩みや考えなければいけないことがあったときに、動画などで耳と視覚を預けておけばそれらを考えなくて済みます。その場を何とかごまかし悩みを忘れることはできます。しかし、それでは根本的な解決にはなりません。
その点美術館が静かだからと言って、勝手に音楽を流すわけにもいきません。
程よく誘惑を断ち切れる空間と過剰な音の侵略から守ってくれるのが美術館です。
以上私が美術館を居心地よい場所と感じる理由を3点挙げさせていただきました。
最後に私にとって居心地のいい空間で何をしているのかいうことに触れて終わりにしたいと思います。
美術史を専攻していた者としてあまり褒められた態度ではないですが、熱心に作品を見ることは、時と場合によりますがあまりなかったと思います。
「今日は作品をじっくり見て何かを感じ取ろう」と意気込んで美術館へ乗り込んだとしても、作品を見ていると様々なことがよぎり、例えば仕事で失敗したことやこれからどうしていこうかなどがかわるがわる頭の中を駆け抜けていきました。
ただそれは、鑑賞に集中できていないというよりも、日ごろ考えていることを整理しようとしていたからでした。様々な物理的な音や視覚的に私自身が好まないものを遮断でき、「自分」というものに向かい合うことができました。
誘惑に弱い自分にとって、また自分の頭で考えることが非常に苦手な自分にとって、非常に重要な時間であったと思います。
特段いい考えや結論が出るわけではありませんでしたが、少し元気になって上野を後にしていました。
私自身今回のテーマで書いてきて、久しぶりにブログを書きながら上野を後にするときのようにすっきりしました。
長文お付き合いいただきありがとうございました。
それでは、addio.