自由に伴う責任 ~現代に生きる人々とフランス革命以後の芸術家たち~

人生について

昨日、久しぶりに美術館を訪れたMaruyama da Gunmaです。

地元高崎出身の山田かまちの美術館に行ってきました。

17歳で亡くなった方ですが、生きるということに対してとてもまじめだったんだなと彼の手記や作品から感じました。

彼は口癖として「1日24時間じゃ足りない」と口にしていたそうです。

確かに現代の多くの人も時間が足りないという人が多くいます。

しかしかまちの足りないと多くの人の足りないには差があると思います。

かまちの場合、自分が心からやりたいことが多いのと、いずれのことに対しても熱中しているため足りなくなっています。

一方私も含め多くの人は自分で選択しているにもかかわらず、あまり気が進まないことに時間を使ってしまい足りなくなっています。非常に消極的なものです。

そして多くの人が気付いているはずです。本当はこんなことしたくないのにと。

しかし自分がしようとすること、現状から離れることへの不安、思考の放棄など様々な要因で現状のままになっています。

今の日本はありがたいことに望めば大体の職業につくことができますし、やりたいこともある程度はできます。なんでもとは言いませんが自由にやりたいことができます。

しかしあまりに自由すぎると困ってしまうのが日本人。

宿題でも、何か書くときになんでもいいから自分で決めてやってと言われると困ってしまいませんか?

それだったら、ある程度テーマ決めてくれた方が楽なのにという経験は結構な方がお持ちではないかと思います。

自由が故の苦しみとでも言えるでしょうか。

しかし、なんでも選択できるが故に人生で何がしたいかとなかなかわからなくなります。

身分がはっきりしていた時代と違い農家に生まれたからずっと農家である必要は今はありません。

単純な比較はできませんが、昔みたいに身分が決まってた方が、楽ではないかとふと思ってしまう時もあります。

最近こんなことをつらつら考えていると、レベルは全く異なりますがフランス革命以降の芸術家と今の人々の状況が非常に似ていると感じました。

フランス革命は遠い昔に起こったことですが、いまだに我々に影響を及ぼしているなと最近実をもって感じます。

1789年に起きたこの革命は、社会の秩序を完全にひっくり返してしまします。

それまでの支配階級であった教会や貴族の特権をなくし、人間は本質的に地位が同じということになりました。

その結果人々は自由を手に入れました。

それは、そういった社会の中に生きていた芸術家も同じです。

彼らはそれまで主に、貴族の肖像画やその屋敷を飾るための芸術、あるいは教会の祭壇画を描くことで生きてきました。

つまり、注文があって、それにこたえる形で作品を作成し活きる糧を得ていました。

そのため、芸術家はこの意味では受動的な立場であったと言えます。

しかしながら、フランス革命により、今まで注文をしていた階級が無くなりました。

その結果、芸術家たちは注文主のうるさい指図から逃れ、自由に制作できるようになりました。

けれどもその代償として、貴族や教会といったかつての収入源を失うことになりました。そのため、注文をとってくるためには自分で顧客を開拓しなければならなくなりました。

ここで画家は2通りの道を選ばなければなりません。

自分のやりたいことあるいは自分の芸術上の問題解決のためだけに制作する。もしそれが大衆の好みに合わなかった場合生活に困窮する。

もう一つはお金を稼ぐために自分の信念を曲げ、大衆の好みに合った作品を作る。

社会の無理解に苦しみながらも、己の道を進む。もう一方は、不本意ながらも自分の信念を曲げ自分を偽る。

これは現在の我々と全く変わらない状態ではないでしょうか。

好きなこと・やりたいことで生きていきたいけれどそうすると稼いでいけるのかが心配。

逆に、やりたくない仕事で生活には困らないが、自分が本当にしたいことができていないので毎日モヤモヤする。

印象派などの芸術家と自分の状況を比較するのはおこがましいですが、自分も彼らと同じなんだと思いました。

セザンヌやゴッホといった画家は当時ほとんど知られずになくなり、死後評価が高まりました。

彼らは社会に理解されない一方で、自らの設定した芸術上の課題に真摯に取り組んでいました。

いうなれば彼らが人生をかけて追及していた課題の答えを具体化したものが絵画という形で表されているわけです。

作品自体がまさにその芸術家の生きざまとなっています。

特にゴッホは、絵画を通して自らの内面を表現することに人生を捧げてきたことからもわかるように彼の生きざまを表現している筆触や色彩に人々は感動するのです。

こういった画家の生涯をかけて制作した人生が表れてくるものを傑作と言えるのだと思います。

当時はより主流だった流派の芸術家の名前は今はほとんど知られていません。

それは、そういった芸術家たちが絵画はこういうものだという当時の主流派に流されたり、挑戦したいことはあったけれどそうすると食べていけなくなってしまって困る思って踏み出せなかったのかも知れません。

ゴッホなどの芸術家は結果的に勝利を収めることができましたが、自分の道を貫いたとしてもそれが成就されるかはまた別の問題です。

そこには必ず責任が伴います。

しかもそれは自分自身に対してです。

常に自分は大丈夫だろうかと自問自答しながら暗闇の中を進んでいかなければいけません。

それが正しい道なのか、そうでないのか答えがないのでわかりません。

さらには自らのいやなところも直視しなければならないとても苦しい瞬間です。

どなたかの言葉か忘れてしまいましたが、「人生とは自らが立てた仮説を証明するためのものである」という私の好きな言葉があります。

生まれてきたこと自体に何かしらの意味はありません。

そこに自分自身で、絵筆、鉛筆あるいはそれ以外の素材によって人生という作品を完成させなくてはいけません。

今度美術館に行ったとき、彼らが我々と同じ人間で人生に葛藤しながら作品を制作していたことをどうか思い出してみてください。

きっと見ている我々にも彼らが芸術に傾けた人生を感じることができると思います。

ここまで読んでいただきありがとうございました。

それではみなさんCiao Ciao!