日本とイタリアの「お・も・て・な・し」の違い

イタリア

ここ2日涼しい日が続き夏の終わりを少し感じ始めたMaruyama da Gunmaです。

2020年は東京オリンピックの年となるはずでした。

そのために、東京駅の前にはカウントダウンのボードがありましたし、東京駅近くの丸善にはオリンピックグッズを売るエリアが設けられたりとムードはとても高まっていたかと思います。

しかし、残念ながら今年に入り、コロナウィルスという想定外の出来事が起きたため来年へ延期となってしまいました。

オリンピックは競技を見ることも楽しいですが、インタビューの時に名言よく生まれるのかも注目したいところでした。

「チョー気持ちいい」「なんも言えねー」「手ぶらで帰らせるわけにはいかない」など(なぜか記憶にあるのは水泳関連ですが)を覚えている方も多いのではないかと思います。

オリンピックは来年になってしまいましたが、今回もすでに注目された言葉があります。

それは、東京オリンピックの招致レースの際に生まれた言葉です。

 

 

その言葉は….

お・も・て・な・し

です。

 

 

東京オリンピックが決まった時は連日テレビでこのシーンが何度も繰り返し放送されていたので、当時はものすごくインパクトがあったかと思います。

「おもてなし」は素晴らしい日本の文化である(文化と言って良いかわかりませんが)と思われた方も多いのではないでしょうか。

今回はこのおもてなしに関連しまして、自分のイタリアでの経験も踏まえて日本とイタリアの「おもてなし」の違いについて書いていきたいと思います。
(チョー私的な意見なのでご容赦ください)

まず日本語のおもてなしの意味について下記の引用からまずはっきりとしておきたいと思います。

「おもてなし」とは、客に対する心のこもった接遇、歓待、サービスなどを意味する言葉です。「おもてなし」の「もてなし」は「持て成し」と書き、以下の4つの意味を持ちます。
① 「待遇:客に対する扱い」
② 「接待:客に出すご馳走」
③ 「態度:人や物事に対する振る舞い方」
④ 「処置:物事に対する扱い」
この「もてなし」に、丁寧の「お」をつけて、「もてなし」の行いに丁寧な真心を加えたのが「おもてなし」という言葉になります。
(引用元:東洋経済ONLINE 「おもてなし」という言葉の本当に大事な意味 https://toyokeizai.net/articles/-/161556 最終アクセス日 2020年9月15日)

 

ここで「客に対する」と明記されているように、日本でのおもてなしはもてなす側と客側に明確な一線があります。もてなす側はへりくだって、相対的に客側が立場が上になります(日本語の謙譲語を思い浮かべていただくといいかもしれません)

 

自分があえて下の立場に下って、お客様を丁重に扱う。
確かに素晴らしいことであると思います。ただ自分はこの「おもてなし」という言葉・関係性から少々冷たいイメージがぬぐえません。

 

冷たいと言いますか、少しドライな関係性を思い浮かべてしましまいます。

 

最初に確認しましたが、おもてなしをするときは「丁重に扱う側と丁重に扱われる側」というように分かれます。これは相手と自分の間に超えることのできない隔たりがあり、相手がはるか上にいて自分ははるか下にいるような立場の違いがあるように思われます。(お客様は神様という言葉もそれを端的に表しています)さらにうがった見方をすれば、もてなしそしてもてなされるだけの関係で、そこからより親しい関係性(友人関係)に発展する可能性をあまり含んでいないように感じます。

 

 

一方のイタリアですが、当然日本でいうところの「おもてなし」という言葉は存在しません。ただないだけで、個人的にはイタリアにもイタリアの「おもてなし」があると思います。

 

それは、新しく来た人を自分たちがいつもしている中に「仲間」として向かい入れることではないかと思います。丁重にもてなしてもらうというよりも、今まであったコミュニティーに混ぜてもらうという感覚です。そこには「もてなす側」と「もてなす側」という境目はなく、新参者も同列に輪の中に加わることができます。

 

ヴェネツィアでは学生が集まる広場があり、決まってそこで夜はみんなと集まって飲んだり、食べたりしていました。そうするときは広場にあるお店でお酒やおつまみを買い、橋に座ったり(ヴェネツィアはとにかく橋が多いです)、広場に車座になって話したりしていました。

 

イタリア語では「あなた」という表現が2つあります。

それは Tuと Lei です。

Tu は 日本語でいうところの「君」に近いかもしれません。友達同士で話すときによく使う形です。Lei は 「あなた」に近い表現で、見ず知らずの人や学生が教授と話すときなど少しかしこまった場に使われる形です。

 

ただこの使い分けは日本の感覚で行くと少し間違えます。初めの頃は、日本と同じように初対面の人にはTuでなくLeiで話しかけていました。日本の感覚ですと、初対面の方と話すときは、打ち解けるまでは敬語や「~さん」を使ったりするからです。

ただ、学生同士だったら歳が離れていても基本的に Tu で問題ないとのことでした。逆にLeiで話しかけられると少し硬い感じがして、違和感があるそうです。

 

イタリア語では Ci diamo del tu! という表現があります。

これは、「Tu を使って話そうよ! 」 という意味ですが、要は肩肘張ってかしこまって話さず、気楽にはなそうよということです。(ニュアンスはこんな感じだと思います)日本だと敬語を使ったり、失礼のないようにと言葉遣いに神経を尖らせないといけないですが、向かい入れる側と向かい入れられる側に境がないとなんとも気楽でいいなと思いました。

 

イタリアの「おもてなし」について書いてきましたが、私は日本の「おもてなし」が悪いといいたいわけではありません。

どちらもあっていいものです。
重要なことは両方知っていて、どちらにもいいところがあると理解しておくことです。

こう言ったときに日本はダメで、欧米はいいと、極端な論に走ることが多いかと思います。(特に欧米との比較ですと、日本がダメで、欧米の方が全部いいなんていう西洋人に対するコンプレックスがまだまだ根深いのも影響しているかもしれません)そうした方が立場ははっきりして、聞く人にもわかりやすいのは確かです。ただ世の中は白黒はっきりと付くことよりも、グレーなことの方が圧倒的に多いはずです。

 

海外旅行の話を聞くと「日本はこうなのに、〇〇の国はこうじゃなかった」「日本じゃありえない」などという方が時々います。自分としてはだから面白いじゃん!と思いますし、こういった既成の価値観を打ち破ってくれる体験ができるのも海外旅行のいいところなのにと思います。

そう言ったときに確かに日本の方がいいと思ったとしても、そこの人々がどうしてそうなるのかその背景を考えることで、自分自身にも新たな価値観を得ることができると思います。

それを理解していれば、何かすることになったときベースは日本のやり方を踏襲したとしても、そういった異文化の経験を少しプラスすることで日本のやり方一辺倒だったこともより改善され良くなるのではないかと思います。

異文化理解が叫ばれて久しいですが、世の中まだまだ差別が多く他者を尊重できない人が多い様に感じます。それは国籍の異なる人に限った話ではなく、日々身近に接する人にも言えることだと思います。ちょっと他と違った言動をとったり、自分の理解を超えたことをする人をすぐに「あの人は変な人だ」とレッテルを貼りたがる人がいます。そうするとなんだかんだ自分が普通で相対的に自分の立場が上になって優越感に浸れるからです。

まずは身近な人の価値観を尊重できるようにならないと日本における異文化理解もまだまだ遠い話ではないかなと思います。

今回も読んでくださり、ありがとうございました。

それではみなさんCiao Ciao.