最近ヴァイオリンの練習をしています。
小学校以来の再開です。
現在は前回とは異なり、単調な基礎練習も続けることができています。
それは良い音を出すためです。
しばらくひとりで練習していましたが、先々月からオンラインで先生に教えてもらうようになりました。
先生におしえてもらったほうが上達も早いですね。(当たり前ですが)
それも「いい」先生に。
何をもって「いい」とするかは人によってわかれますが、私にとって「基本をわかりやすく丁寧にこちらが理解できるまで教えてくれること」です。
イタリア語のケースになってしまいますが、自分が準備をしたことをやりたいがために、こちらの反応を見ずにどんどん先に進んでいってしまう先生も時々いたりします。
だから何かを始めるべき時はよい師を持つことは非常に重要なことであると思いました。
さて、私はよい先生を見つけたまではいいのですが、問題は個人での練習です。
問題点がわかったとしても、それを改善するのは自分自身です。
できない箇所に向き合い、根気強くできるまで練習することはなかなか骨がおれることです。
そのため、昔よくやってしまっていた「弾いていて心地いい小節ばかり弾いてしまうこと(しかもリズムや音程、弓の使い方、強弱は全く無視)」が今でも多々あります。
耳馴染みのある曲の有名なフレーズを弾いていると気分が高揚してきてそこばかりに熱中してしまいます。
おお、自分はあの作曲家の曲を弾けているぞという優越感にしばしひたってしまいます。
別に私はプロのヴァイオリン奏者でなく、趣味でやっているだけなのでそれでもいいっちゃいいわけです。
しかし、もっと上手くなりたいと思っているので、これは大きな問題です。
同じ箇所を何も考えずに弾いていれば、そこも上手くなりませんし、そこだけ弾けても曲は完成しません。
あまりやりたくないフレーズ、弾いてて必ず間違えるところ、好きでないところは避けがちです。
ただ練習するべきところは明白です。
苦手なところ、できないところです。
しかし、私はそれらを避けます。
たかが趣味のヴァイオリンの練習の話でしょと思われるかもしれません。
けれども、私自身の毎日の仕事の様子や今までの人生を振り返るとヴァイオリンの練習で陥っていることと同じことが毎日での生活でも起きていると最近気づきました。
面倒を避ける
できないところに向き合わず改善しようとしない
まさしくヴァイオリンの練習中に起きていることが、他の場面でも発生していました。
そうなるとヴァイオリン同様、特に仕事をしている際、できるところしかやらない、前日と同じ事を繰り返すなどといった事態が起きていました。
その結果、仕事において何も積み重ねや成長がないというわけです。
以前の記事で鏡に映る自分の姿をやっと直視できるようになった話をしましたがそれはまだまだ表面的な部分だけでした。
自己分析
私の中のリトルマルヤマが、Maruyama da Gunmaの精神的な部分あるいは性格的な側面(面倒を避ける、同じことばかりを何も考えず繰り返す)に対峙することができていないようです。
せっかく楽しむためにヴァイオリンを弾いていたはずでしたが、思わぬところで、自分のいたらなさに直面することになってしまいました。
ただこういったことに今回気がつくことができたのもヴァイオリンの練習を再開したからです。
ヴァイオリンも、ものの考え方も、仕事も勉強も結局は同じ原理で動いていると強く感じました。
多くのことは単純で、やるべきことは明確なはずですが、面倒を避けできない理由を考えるほうにエネルギーを費やすために、頭がこんがらがりわかりづらくなっているだけではないかと。
そう思いました。
最後になりましたが、これだけは言わせてください。
ヴァイオリンで、情熱大陸のサビの部分が弾けるようになりました!
その部分はかっこいいのでダメだと思いながらも何回も弾いてしまいます…
これだからダメなんですよね…
Gunmaからは以上です。
それではみなさんCiao Ciao.